今夜は、今季初の東京ドーム。巨人対ヤクルト。また、あの馬鹿高いビールを飲んでしまうのか。




2000蟷エ4譛8譌・縺ョ句(前日までの二句を含む)

April 0842000

 地にぢかに居る故の酔ひ花莚

                           上野 泰

莚(はなむしろ)も、いまや青いビニール・シートと化しているが、それは問わない。地面に「ぢかに」座ったときの感触は、日常生活の習慣から逸脱していることもあり、違和感が伴うものだ。かなり気温の高い日でも尻の下の「地」は冷たいし、なんだか知らないが、とても妙な気持ちがする。その感触から来る感じ方もおそらくは人さまざまで、ゆったりとした気分になれる人もいれば、いつまでも落ち着かない人もいるだろう。作者は後者の気分に近く、落ち着かない酒に、少し悪酔いしてしまった、あるいは意外にも早く酔いすぎてしまったというところか。句が、いやに理屈っぽいのも、そのせいである。日頃のペースで機嫌よく酔えたのだったら、こんなに理屈っぽく締めくくるわけがない。だからわざわざ「花莚」を句のなかに持ちだして、八つ当たりしている趣きすら感じられる。今日の東京あたりは、絶好の花見どき。最高の人出が予想される。なかには、悪酔いする人も必ずいるはずだ。でも、その誰もかれもが浮かれて飲みすぎての悪酔いと見るのは浅薄で、実は作者のように、神経から先に変に酔ってしまう人も少なくないということである。一読、異色の句ともうつるが、実はまっとうなことをまっとうに述べている句。『一輪』(1965)所収。(清水哲男)


April 0742000

 つくねんと木馬よ春の星ともり

                           木下夕爾

が暮れて、公園には人影がなくなった。残されたのは、木馬などの遊具類である。もはや動くことを止めた木馬が、いつまでも「つくねんと」一定の方向に顔を向けてたたずんでいる。いつの間にか、空では潤んだような色の春の星が明滅している。「ああ、寂しい木馬よ」と、作者は呼びかけずにはいられなかった。一般的な解釈は、これで十分だろう。しかし、こう読むときに技法的に気になるのは「つくねんと」の用法だ。人気(ひとけ)のない場所での木馬は、いつだって「つくねん」としているに決まっているからである。わざわざ念を押すこともあるまいに。これだと、かえって作品の線が細くなってしまう。ところが、俳句もまた時代の子である。この句が敗戦直後に書かれたことを知れば、にわかに「つくねん」の必然が思われてくる。実は、この木馬に乗る子供など昼間でも一人もいなかったという状況を前提にすれば、おのずから「つくねん」に重い意味が出てくるのだ。敗戦直後に、木馬が稼働しているわけがない。人は、行楽どころじゃなかったから……。したがって彼は、長い間、ずうっとひとりぽっちで放置されていたわけだ。そして、この先も二度と動くことはないであろう。つまり「つくねん」はそんな木馬の諦観を言ったのであり、諦観はもちろん作者の心に重なっている。空だけは美しかった時代のやるせないポエジー。『遠雷』(1959)所収。(清水哲男)


April 0642000

 畝はしづかに集まり隆まり入学す

                           大槻紀奴夫

の春も、おびただしい数の「入学」句が作られるのだろう。ただし失礼ながら、そのほとんどは「親ばか」句で占められるだろう。作者の気持ちはわかる。が、俳句として第三者の鑑賞に耐えうる作品となると、なかなかお目にかかれない。数多の歳時記を繙いても、たくさん作られている割には例句も少ないし、佳句も寥々たる始末だ。そんななかで、掲句は群を抜いて高いレベルにあると思う。昔の「しづかな」農村の「しづかな」入学風景だ。子供の緊張や親の喜びを直接に詠まずに、学校までの道筋の様子を淡々と描いている。淡々と描いたことにより、かえって「入学」の緊張や喜びが、よく伝わってくる。このとき、田畑の畝(うね)の起伏は、入学児とその親が学校まで歩いていく途中の風景そのままの変化である。と同時に、歩いていく者の胸中の変化でもある。畝が隆まりきったところに学校があり、校門をくぐる者の胸の内の隆まりも、そこでピークに達する。そこで、作者と入学児は別々に定められた場所に別れるわけで、途端に句は「入学す」と落着した……。けだし、「入学」句中の白眉と言うべきだろう。『角川版・俳句歳時記』(1974)所載。(清水哲男)




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