通信・インターネット参入問題で、NHKが泡を吹いている。民営化の声が上がらないのは何故か。




2000ソスN4ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0942000

 夜櫻のぼんぼりの字の粟おこし

                           後藤夜半

たまんま、そのまんま。だが、なぜか心に残る。夜半の初期(二十代だろう)には、このような小粋な句が多かった。「見たまんま、そのまんま」だが、目のつけどころに天賦の才を感じる。夜桜見物。誰でもぼんぼりにまでは目がゆくが、書かれている広告文字にまでは気が及ばない。ぼんぼりの「粟おこし」は単なる文字でしかないけれど、こうやって句に拾い上げてやると、春の宵闇のやわらかな感覚に実によくマッチしてくるから不思議だ。ここは、やはり「粟おこし」でなければならないのであって、他の宣伝文字のつけ入る余地はあるまい。ここらあたりが、短い詩型をあやつる醍醐味である。夜半は明治生まれで、生粋の大阪人。生涯、大阪の地を離れることはなかった。だから、掲句はよき時代の大阪の情緒を代表している。いつもながらの蛇足になるが、「桜」の旧字の「櫻」というややこしい漢字を、昔の人は「二階(二貝)の女が気(木)にかかる」と覚えた。こう教わると、女性の場合は知らねども、男だったら一度で覚えられる。いや、忘れられなくなる。庶民の小粋な知恵というものだろう。『青き獅子』(1962)所収。(清水哲男)


April 0842000

 地にぢかに居る故の酔ひ花莚

                           上野 泰

莚(はなむしろ)も、いまや青いビニール・シートと化しているが、それは問わない。地面に「ぢかに」座ったときの感触は、日常生活の習慣から逸脱していることもあり、違和感が伴うものだ。かなり気温の高い日でも尻の下の「地」は冷たいし、なんだか知らないが、とても妙な気持ちがする。その感触から来る感じ方もおそらくは人さまざまで、ゆったりとした気分になれる人もいれば、いつまでも落ち着かない人もいるだろう。作者は後者の気分に近く、落ち着かない酒に、少し悪酔いしてしまった、あるいは意外にも早く酔いすぎてしまったというところか。句が、いやに理屈っぽいのも、そのせいである。日頃のペースで機嫌よく酔えたのだったら、こんなに理屈っぽく締めくくるわけがない。だからわざわざ「花莚」を句のなかに持ちだして、八つ当たりしている趣きすら感じられる。今日の東京あたりは、絶好の花見どき。最高の人出が予想される。なかには、悪酔いする人も必ずいるはずだ。でも、その誰もかれもが浮かれて飲みすぎての悪酔いと見るのは浅薄で、実は作者のように、神経から先に変に酔ってしまう人も少なくないということである。一読、異色の句ともうつるが、実はまっとうなことをまっとうに述べている句。『一輪』(1965)所収。(清水哲男)


April 0742000

 つくねんと木馬よ春の星ともり

                           木下夕爾

が暮れて、公園には人影がなくなった。残されたのは、木馬などの遊具類である。もはや動くことを止めた木馬が、いつまでも「つくねんと」一定の方向に顔を向けてたたずんでいる。いつの間にか、空では潤んだような色の春の星が明滅している。「ああ、寂しい木馬よ」と、作者は呼びかけずにはいられなかった。一般的な解釈は、これで十分だろう。しかし、こう読むときに技法的に気になるのは「つくねんと」の用法だ。人気(ひとけ)のない場所での木馬は、いつだって「つくねん」としているに決まっているからである。わざわざ念を押すこともあるまいに。これだと、かえって作品の線が細くなってしまう。ところが、俳句もまた時代の子である。この句が敗戦直後に書かれたことを知れば、にわかに「つくねん」の必然が思われてくる。実は、この木馬に乗る子供など昼間でも一人もいなかったという状況を前提にすれば、おのずから「つくねん」に重い意味が出てくるのだ。敗戦直後に、木馬が稼働しているわけがない。人は、行楽どころじゃなかったから……。したがって彼は、長い間、ずうっとひとりぽっちで放置されていたわけだ。そして、この先も二度と動くことはないであろう。つまり「つくねん」はそんな木馬の諦観を言ったのであり、諦観はもちろん作者の心に重なっている。空だけは美しかった時代のやるせないポエジー。『遠雷』(1959)所収。(清水哲男)




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