ネット巡り。気の弱い日はパソコン関連を多く見てしまう。余計な気を使わなくてもよいからだ。




2000蟷エ4譛12譌・縺ョ句(前日までの二句を含む)

April 1242000

 次の樹へ吹き移りゆく杉花粉

                           右城暮石

戦後の一時期は、全国的に杉の木の植樹奨励時代でした。小学生だった私たちも授業の一環として、よく山に出かけて植えさせられたものです。そんなわけで、私などは四囲を杉に囲まれて育ちました。「杉の花」(春の季語)は花としては地味ですが、花粉の飛ぶ様子には凄いものがあります。風が吹くと、さながら煙のように飛散し移動し、この句はよくその様子をとらえています。圧倒的な飛散の光景は、まさに「吹き移りゆく」というしかありません。しかし、この様子がまさか後になって、「花粉症」なるアレルギー症状を引き起こすなど想像の埒外でした。幸いにも、私は花粉症とは無縁で来ていますが、周囲には今春になって突然発症した人もいて、お気の毒です。最近の歳時記のなかには、季語として「花粉症」を独立した項目に登録している本もありますし、句も数多く作られるようになってきました(当歳時記では「杉の花」の小項目に分類)。花粉症の方は見るのもいやかと思いますが、例句を二句あげておきます。「七人の敵の一人は花粉症」(伊藤白湖)、「花婿がよもやの花粉症なりし」(大庭三千枝)。いずれも、花粉症ではない作者が戸惑っている図ですね。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


April 1142000

 山吹や根雪の上の飛騨の径

                           前田普羅

羅は、こよなく雪を愛惜した俳人だ。根雪の径は、さぞや歩きにくいことだろう。春とはいえ、まだ寒気も厳しい。「道」でも「路」でもない、飛騨の細く曲がりくねった山「径」である。黙々と歩いていくうちに、作者は咲きそめたばかりの可憐な山吹の花を認めた。根雪の白と山吹の花の黄。目に染みる。まさに「山吹や」の感慨が、ひとりでに胸中に湧いてくるではないか。心が洗われる美しい句だ。飛騨の土地を、私はよく知らない。一度だけ飛騨高山を訪れたことがあるが、季節は初秋であった。高山で「オーク・ヴィレッジ」という木工工房を開設したばかりのIさんに会うためだった。数えてみたら、もう二十年も前のことになる。Iさんは早稲田の理工を出てから、途中で一念発起して木工の世界に飛び込んだ人。「脱サラ」のはしりと言ってもよかろうが、彼のさわやかな人柄ともあいまって、飛騨高山の自然も人情も、とても好ましかった。その折りに、百年はもつ木机を、いつか私に経済的な余裕ができたら作ってもらう約束をしたような覚えがある。でも、いまだに私はぺなぺなの既製品の机にしがみついている体たらくで、注文をする余裕を持ちえていない。句には無関係だが、以来、そんなわけで飛騨と聞くとどきりとする。『雪山』(1992)所収。(清水哲男)


April 1042000

 そんなことよく思ひつく春の水

                           岡田史乃

て、「そんなこと」とは、どんなことなのか。「そんなこと」は、書いてないのでわからない。 わかることは、「そんなこと」が「そんな馬鹿なこと、どうでもよいこと」に近い中身であろうということだけ。もしも「そんなこと」が、心より賛嘆すべき内容を持っていたとしたら、「春の水」と照応させたりはしないはずだ。水温む候、作者の機嫌はすこぶるよろしく、「そんなこと」にも立腹せずに微笑して応えている。また、あなたの馬鹿話がはじまった。それにしても、次から次へと、よく「そんなこと」を思いつく人であることよ。わずらわしい時もあるけれど、今日はむしろ楽しい感じだ。目の前には、豊かな春の日差しを受けてキラキラと輝く水が流れている。全て世は事もなし。束の間ではあるかもしれないが、至福の時なのだ。ところで、句の成り立ちを作者の立場になって考えてみると、上中の十二文字は素直にすらりと出てきたはずだが、さあ、下五字をどうつけるかには少なからず腐心したにちがいない。それこそ「春の水」を「思ひつく」までには、相当に呻吟したと推察される。すなわち、突然口を突くように出てきた上中のフレーズを、簡単に捨てるには忍びなかったということ。反対に、実は一切そんな苦労はなかったのかもしれないが、長年俳句を読んでいると、つい「そんなこと」までをも気にかけてしまう。ビョーキである。史乃さん、間違ってたらごめんなさい。『ぽつぺん』(1998)所収。(清水哲男)




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