G黷ェH句

April 1442000

 針のとぶレコード川のあざみかな

                           あざ蓉子

ざ蓉子の句のほとんどは、字面で追ってもつかめない。イメージや感覚の接続や断裂、衝突を特徴としている。この場合は、感覚的に味わうべきなのだろう。すなわち、レコード(もちろんSP版、蓄音機で聞く)の針とびのときに感じる「あ、イタッ」という感覚と薊(あざみ)のトゲに触った感触とが照応しているのだ。この感覚的な理解からひっくりかえってきて、はじめて句は作者がレコードを聞いている光景を想起させるというメカニズム。窓から春の川辺が見えている部屋の光景も、浮かんでくる。戦後大ヒットした流行歌に「あざみの歌」というのがあった。「山には山の憂いあり」と歌い出し、「まして心の花園に咲きしあざみの花ならば」で終わる。恋の悩みを歌っているが、素朴なあざみの花をあしらったところに、この歌の戦後性が見て取れよう。身も心も疲れ果てていた若者の胸に咲くのだから、たとえば薔薇のような豪華な花では耐えられない。薊ほどの地味な野の花が、ちょうどよかったのだ。俳句でいえば「深山薊は黙して居れば色濃くなる」(加藤知世子)と、こんな感覚につながっていた。『ミロの鳥』所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます