最近、初めての本なのに、昔読んだことがあるように思えてくる。よい本ほど……。なぜだろう。




2000蟷エ4譛16譌・縺ョ句(前日までの二句を含む)

April 1642000

 耕人に傾き咲けり山ざくら

                           大串 章

の段々畑。作者は、そこで黙々と耕す農夫の姿を遠望している。山の斜面には一本の山桜があり、耕す人に優しく咲きかかるようにして花をつけている。いつもの春のいつもと変わらぬ光景だ。今年も、春がやってきた。農村に育った読者には、懐しい感興を生む一句だろう。「耕人」という固い感じの文字と「山ざくら」というやわらかい雰囲気の文字との照応が、静かに句を盛り上げている。作者自註に、こうある。「『傾き咲けり』に山桜のやさしさが出ていればよいと思う。一句全体に生きるよろこびが出ていれば更によいと思う」。山桜の名所として知られるのは奈良の吉野山だが、このようにぽつりと一本、人知れず傾き立っている山桜も捨てがたい。古来詩歌に詠まれてきた桜は、ほとんどが「山桜」だ。ソメイヨシノは明治初期に東京の染井村(豊島区)から全国に広まったというから、新興の品種。あっという間に、桜の代表格の座を占めたようだ。だから「元祖」の桜のほうは、わざわざ「山桜」と表記せざるを得なくなったのである。不本意だろう。『朝の舟』(1978)所収。(清水哲男)


April 1542000

 野遊びの皆伏し彼等兵たりき

                           西東三鬼

地よい春の日差しを浴びて、のんびりと野に憩う仲間たち。楽しい一時だ。吟行の途次であるのかもしれない。そのうちに、一人二人と芳しい草の上に身を横たえはじめた。が、気がつくと、彼等はみな腹ばいになっている。一人の例外もなく、地に伏せている。偶然かもしれないが、仰向けになっている者は一人もいないのだ。その姿に、三鬼は鋭くも戦争の影を認めた。彼らは、かつてみな兵士であった。だから、こうして平和な時代の野にあるときでも、無意識に匍匐の姿勢、身構えるスタイルをとってしまうのである。兵士の休息そのものだ。習い性とは言うけれど、これはあまりにも哀しい姿ではないか。明るい陽光の下であるだけに、こみあげてくる作者の暗い思いは強い。「兵たりき」読者がおられたら、一読、たちどころに賛意を表される句だろう。明暗を対比させる手法は俳句のいわば常道とはいえ、ここまでの奥深さを持たせた句は、そうザラにあるものではない。『新改訂版 俳句歳時記・春』(1958・新潮文庫)所載。(清水哲男)


April 1442000

 針のとぶレコード川のあざみかな

                           あざ蓉子

ざ蓉子の句のほとんどは、字面で追ってもつかめない。イメージや感覚の接続や断裂、衝突を特徴としている。この場合は、感覚的に味わうべきなのだろう。すなわち、レコード(もちろんSP版、蓄音機で聞く)の針とびのときに感じる「あ、イタッ」という感覚と薊(あざみ)のトゲに触った感触とが照応しているのだ。この感覚的な理解からひっくりかえってきて、はじめて句は作者がレコードを聞いている光景を想起させるというメカニズム。窓から春の川辺が見えている部屋の光景も、浮かんでくる。戦後大ヒットした流行歌に「あざみの歌」というのがあった。「山には山の憂いあり」と歌い出し、「まして心の花園に咲きしあざみの花ならば」で終わる。恋の悩みを歌っているが、素朴なあざみの花をあしらったところに、この歌の戦後性が見て取れよう。身も心も疲れ果てていた若者の胸に咲くのだから、たとえば薔薇のような豪華な花では耐えられない。薊ほどの地味な野の花が、ちょうどよかったのだ。俳句でいえば「深山薊は黙して居れば色濃くなる」(加藤知世子)と、こんな感覚につながっていた。『ミロの鳥』所収。(清水哲男)




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