ツツジが満開なのは車の通行量が多い道路際。公害に強いのか、排ガスにやられた悲鳴の表現か。




2000蟷エ4譛20譌・縺ョ句(前日までの二句を含む)

April 2042000

 蝌蚪の辺に胎児をささぐごとくたつ

                           佐藤鬼房

蚪(かと)は「蛙の子」、つまり「おたまじゃくし」のこと。なにせ俳句は短い詩だから、使う言葉も短いほうが好まれる。たとえば「かいつぶり」は五音だが、「にお(鳰)」と言い換えれば二音でまかなえるし、「ベースボール」は「野球」という翻訳語を使って同様に節約する。要するに漢語表現を珍重するわけで、それも少々使い過ぎで、日常用語としては通じない言葉までもが多用されてきている。さしずめ「蝌蚪」などは、その好例だろう。「おたまじゃくし」を見て「あっ、蝌蚪だ」と反応するのは、俳句趣味を持ちあわせている人くらいのものである。このあたりは、今後の俳句の考えどころだ。さて掲句だが、妊婦である妻とおたまじゃくしを見ている作者の感慨だ。「ささぐごとく」に、句の命がある。妊婦が足許あたりをのぞき込むときに、そおっと下腹に両手をそえるのは自然体だ。その姿を見て、作者は「ささぐごとく」と言っている。ここには妻への思いやりの心が溢れているし、蛙の子という生命体と「胎児」というまだ見ぬ生命体に共通する「命」への賛歌が奏でられている。地味だが、命の芽吹く春にふさわしい佳句と言えよう。『名もなき日夜』(1951)所収。(清水哲男)


April 1942000

 木蓮や母の声音の若さ憂し

                           草間時彦

ぶん、これは男の心だけに起きる「憂し」だろう。木蓮が咲いた。木蓮は、大きな蕾を得てからも、なかなか簡単には花開かない。今日か明日かと待ちかねていた母が、庭から「ねえ、咲いたわよ。見にきなさいよ」と、はしゃいだ声で作者に呼びかけてきた。彼女の声音は妙に若々しく、そこで作者の気持ちに微妙な憂鬱の影が走る。老いた母に、未だ残っている若い女の性。敏感にそれをかぎ当てて、一瞬「いやだな」と思ったのだ。大袈裟に言えば、母の声に母子相姦への誘いのようなニュアンスを聞き取った……。もとより、母は無意識だ。その無意識がたまらない。たいていの男は、幼時から母を性の外に置いて聖化して生きていく。嘘か誠かは知らねども、よく若い娘が「父親のような人と結婚したい」などと公言したりするけれど、嘘でも男はそういうことは口にできない生き物である。だから、母の側にも一瞬たりとも性的な存在であられては困惑してしまうのだ。どう反応したらよいのか、うろたえることになる。「木蓮」といういささか官能的な感じのする花を配して、句は見事に男の精神的な性の秩序のありようを描いてみせている。深読みではない、と思う。それ以外に「憂し」の根拠は思い当たらぬ。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


April 1842000

 わが屋根をゆく恋猫は恋死ねや

                           藤田湘子

となく夜となく、屋根の上で狂おしくも鳴きわめく恋の猫。この句、だいぶ前から知ってはいたけれど、「恋死ねや」が理解できないまま頭にひっかかっていた。どういう意味なのか。「そんなに恋い焦がれていると、いずれ衰弱して死んでしまうぞ」ということなのだろうか。よくわからなかった。で、最近になってたまたま「俳句研究」(2000年4月号)を見ていたら、「湘子自註」という連載がはじまっており、句の自註が載っていた。「やった」と飛びついて、しっかりと読んだ。以下、全文。「(昭和)二十八年に大森の下宿から荻窪の下宿に移った。ばかに猫が多いと思ったのは、主の老婆が野良猫どもに餌を与えるからだった。隣家にはソプラノの発声練習を憚らぬ老嬢。大森とはまったく違った声、声、声。それでやや業を煮やした一句」。そうだったのか。私は、やや無理をして「や」を詠嘆的にとらえていたようだ。ストレートに「こいじねや」と読んで、「やかましいッ、お前なんぞは勝手に恋に狂って死んでしまえッ」と、業を煮やした末の怒りの発声だったのだ。しかも、うるさかったのは猫だけじゃなかったのだが、恋猫に八つ当たりをした句でもあった。しかし、そこまでは誰にも読めはしない。『途上』(1955)所収。(清水哲男)




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