April 222000
行く春やみんな知らない人ばかり
辻貨物船
季節の春はもとより、人間の春も短い。詩人は「行く春」の季節のなかで、みずからの青春を追想しているように思える。林芙美子は「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」と、みずからの青春を「花」に擬したが、これは女性に特有の感覚だろう。女性に特有の感覚だからこそ、男に愛唱される一行となった。男の感覚には、存外まわりくどいところがある。ぴしゃりと「花」に行き着くことなどは、めったにない。根っこのところで、いつも行き暮れている。茫洋とし、かつ茫然としている。常識では、この様子を「シャイ」と言ったりするわけだが、正体を割ってみれば、行き暮れているだけのこと。ときに男が「蛮勇」を振るうのも、そのせいである。男の詩人にとっての詩は、いわば「蛮勇」の振るい場所なのだ。辻の最後の詩集のタイトルは『萌えいずる若葉に対峙して』と名づけられており、明確に「蛮勇」が露出している。ひるがえって、彼が真剣に俳句と遊んだ理由は、そこが必ずしも「蛮勇」を要求しない場所だったからだ。行き暮れたまま、そのままに内心を吐露することができたからだと思う。句の「知らない人」とは、もちろんアカの他人も含んでいるが、男の感覚にとって重要なのは、このなかには親も兄弟も、連れ合いも子供も、友人知己もが「みんな」含まれているところだ。「蛮勇」を振るわなくとも、俳句ではそういうことを「行き暮れ」たままに言うことができる。今年の春も、もう行ってしまう。『貨物船句集』(2000・井川博年編・私家版)所収。(清水哲男)
April 212000
暗殺の寝間の明るさ蝶の昼
守屋明俊
俳句お得意の明暗対比の技法。どこだろうか。かつて歴史的な暗殺事件のあった家屋が公開されており、観光名所のようになっている。暗殺現場であったという寝間に入ってみると、とても伝えられるような陰惨な殺しがあった部屋とは思えない。説明の人が柱や欄間に残る刀傷を指さしたりしてくれるのだが、なんとなく腑に落ちるような落ちないような……。真昼の明るさが、暗殺の生臭さを遮るのだ。加えて、暗殺の政治的有効性がゼロになった現代という時代性が、かつての暗殺理解を拒むからでもある。部屋の障子は大きく開け放たれ、明るい庭に目をやると、蝶がひらひらと春風に流れているのが見える。どなたにも、きっと同種の体験はおありだろう。私など、こうした建物や部屋に入ったときにいつも感じるのは、昔の人(大昔からつい五十年ほど前までの大人たち)の平均的な背丈の小ささだ。「五尺の命ひっさげて」とある戦前の歌を証明するように、玄関からして首を縮めて入らないとゴツンとやりそうになる。だから、現代人はとてもあんなに小さな空間で刀なんぞは振り回せないだろう。心理的にはそういうことも働いて、史実の暗さや生臭さはいっそう遠のいてしまうのかもしれない。『西日家族』(1999)所収。(清水哲男)
April 202000
蝌蚪の辺に胎児をささぐごとくたつ
佐藤鬼房
蝌蚪(かと)は「蛙の子」、つまり「おたまじゃくし」のこと。なにせ俳句は短い詩だから、使う言葉も短いほうが好まれる。たとえば「かいつぶり」は五音だが、「にお(鳰)」と言い換えれば二音でまかなえるし、「ベースボール」は「野球」という翻訳語を使って同様に節約する。要するに漢語表現を珍重するわけで、それも少々使い過ぎで、日常用語としては通じない言葉までもが多用されてきている。さしずめ「蝌蚪」などは、その好例だろう。「おたまじゃくし」を見て「あっ、蝌蚪だ」と反応するのは、俳句趣味を持ちあわせている人くらいのものである。このあたりは、今後の俳句の考えどころだ。さて掲句だが、妊婦である妻とおたまじゃくしを見ている作者の感慨だ。「ささぐごとく」に、句の命がある。妊婦が足許あたりをのぞき込むときに、そおっと下腹に両手をそえるのは自然体だ。その姿を見て、作者は「ささぐごとく」と言っている。ここには妻への思いやりの心が溢れているし、蛙の子という生命体と「胎児」というまだ見ぬ生命体に共通する「命」への賛歌が奏でられている。地味だが、命の芽吹く春にふさわしい佳句と言えよう。『名もなき日夜』(1951)所収。(清水哲男)
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