なんだかわからないままに黄金週間。スケジュール表には月曜から特に何もなし。何をしようかな。




2000ソスN4ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2942000

 あすなろの明日を重ねし春落葉

                           丸山海道

葉樹とは違って、シイやカシ、ヒノキなどの常緑樹は晩春に葉を落とす。「あすなろ(翌桧)」はれっきとしたヒノキ科だから、落葉はやはり春だ。名前の「あすなろ」は「明日はヒノキになろう」の意で、地方によってはずばりと「アスハヒノキ」と呼んでいるという。他には「アスヒ」「シロヒ」「ヒバ」などとも。句は、大きな「あすなろ」の落葉が重なっている様子を「明日」の重なりに見立てたもの。すなわち、「明日はヒノキになろう」とする、その希望の「明日」が、ついに実現されることなく地上に幾重にも重なって落ちてしまっている傷みを詠んでいる。しかし、不思議に無残は感じられない。秋冬の落葉はうら寂しいが、明るい陽光に舞い落ちてくる春落葉は陽性だ。夏の日を前に、いっそ葉を落としてすっきりとしたような、そんな気分に感じられるからだろう。傷ましいとは思いつつも、作者は一方で「がんばれよ、そのうちきっとヒノキになれるさ」と、明るい顔で慰めてもいるのだろう。健気な「あすなろ」への激励句だと、ここは読んでおきたい。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


April 2842000

 鴨のこる池が真中競馬場

                           飯島晴子

語は「鴨のこる(残る鴨)」。春先から鴨は北へ帰っていくが、春深くなってもまだ帰らずにいる鴨を指す。なぜ、残るのか。生物学的な解釈は知らないが、どことなくお尻の重い人を連想させられたりして、ほほ笑ましい。そんな鴨の浮かんでいる池が、競馬場の真中にあるというわけだが、実景だろう。競馬場ないしは競馬の句というと、とかくレースがらみの発想に淫しがちのなかで、かくのごとくに淡々たる叙景句は珍しい。だから、逆に際立つ。競馬ファンなら、ポンと小膝の一つも叩きたくなるはずだ。ただし、このような句はよほどの競馬好きの人にしか作れないだろう。場数を踏んでいないと、なかなか競馬場の池などには目が行かないし、ましてやそこに浮かぶ小さな鴨なんぞに気がつくはずもないからである。競馬好きの目と俳句好きの目が交互に影響しあって、はじめて成立した作品だ。このとき、作者にとっての肝心のレースはどうなっているのだろうか。もはや私には、想像できかねる世界だ。二十数年前、中山の有馬記念でしたたかにやられ、文字通りにとぼとぼと北風吹くオケラ街道を戻って以来、ふっつりと止めてしまった。『八頭』(1985)所収。(清水哲男)


April 2742000

 うららかや袱紗畳まず膝にある

                           久米三汀

の置けない茶会の席である。茶碗を受けたあとの袱紗(ふくさ)が、畳まれずにずっと膝にあるという図。いかにうちとけた茶会とはいえ、普段ならきちんと畳むところだ。つい畳まずにあるのは、この麗かさのせいなのだと……。三汀(久米正雄)は十代より俳人として名を知られたが、途中から小説に転じて成功をおさめた。と言っても、今日彼の小説を読む人がいるかどうか。同じ鎌倉に住んだ永井龍男に簡潔な人物スケッチがあるので、引いておく。「明治大正を通じて、狭い世界に閉じ籠っていたわが国の文学・文学者は、大正期の末頃からにわかに社会性を帯びたが、久米正雄は当時の文壇を代表して一般社会に送り出された選手であった。派手な才能人であっただけに、文学者として社会人として常に毀誉褒貶の中にいた。人前では微笑を絶やさず明朗な人であったが、傷つくことも多く、苦渋に顔をゆがめて独居するさまを、その自宅で私はしばしば見た。俳句は、そのような鬱を散じるためにあった。三汀の句は紅を紅、青を青と云い極める華麗さに特徴があった。句座での三汀は純粋であった」(『文壇句会今昔』1972)。また、相当な新しがり屋でもあり、放送をはじめたばかりのラジオを聞くために、自宅に巨大なアンテナをおっ立てた話を随想で読んだことがある。今ならば、間違いなくパソコンにのめりこんでいただろう。「文藝春秋」(1937年4月号)所載。(清水哲男)




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