コデマリとミズキ(花水木に非ず)の純白にして可憐な花が咲いている。風薫る五月がやってくる。




2000蟷エ4譛30譌・縺ョ句(前日までの二句を含む)

April 3042000

 つばくらや嫁してよりせぬ腕時計

                           岡本 眸

半世紀前の句。そのころの、ごく一般的な主婦の心情と言ってよいだろう。いわゆる専業主婦の作者が、買い物の道すがらでもあろうか、ついと飛ぶ「つばくら(燕)」の姿を見かけた。ああ、もうこんな季節にと、陽光に目がまぶしい。勤めていたころには日々忙しく、燕の飛来などに時の移ろいを感じるよりも、腕時計の表示に追われてあくせくしていた。どんどん、時は容赦なく過ぎていった。それが「嫁(か)して」より腕時計の必要のない生活に入り、こうしてゆったりと時の流れを実感することができている。言い慣らされた言葉だが、いまここにある小さな庶民的幸福感を詠んだ句だ。ただ哀しいことに、この句が詠まれた一年後に、作者の伴侶は急逝している。句とそのこととはもとより無関係なのだが、一読者としてそのことを知ってしまった以上は、掲句に対して冷静のままではいられない。人間、一寸先は闇。これまた言い慣らされたそんな言葉を胸の内に立ち上げて句に戻ると、まぶしくも辛いものがこみ上げてくる。『冬』(1976)所収。(清水哲男)


April 2942000

 あすなろの明日を重ねし春落葉

                           丸山海道

葉樹とは違って、シイやカシ、ヒノキなどの常緑樹は晩春に葉を落とす。「あすなろ(翌桧)」はれっきとしたヒノキ科だから、落葉はやはり春だ。名前の「あすなろ」は「明日はヒノキになろう」の意で、地方によってはずばりと「アスハヒノキ」と呼んでいるという。他には「アスヒ」「シロヒ」「ヒバ」などとも。句は、大きな「あすなろ」の落葉が重なっている様子を「明日」の重なりに見立てたもの。すなわち、「明日はヒノキになろう」とする、その希望の「明日」が、ついに実現されることなく地上に幾重にも重なって落ちてしまっている傷みを詠んでいる。しかし、不思議に無残は感じられない。秋冬の落葉はうら寂しいが、明るい陽光に舞い落ちてくる春落葉は陽性だ。夏の日を前に、いっそ葉を落としてすっきりとしたような、そんな気分に感じられるからだろう。傷ましいとは思いつつも、作者は一方で「がんばれよ、そのうちきっとヒノキになれるさ」と、明るい顔で慰めてもいるのだろう。健気な「あすなろ」への激励句だと、ここは読んでおきたい。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


April 2842000

 鴨のこる池が真中競馬場

                           飯島晴子

語は「鴨のこる(残る鴨)」。春先から鴨は北へ帰っていくが、春深くなってもまだ帰らずにいる鴨を指す。なぜ、残るのか。生物学的な解釈は知らないが、どことなくお尻の重い人を連想させられたりして、ほほ笑ましい。そんな鴨の浮かんでいる池が、競馬場の真中にあるというわけだが、実景だろう。競馬場ないしは競馬の句というと、とかくレースがらみの発想に淫しがちのなかで、かくのごとくに淡々たる叙景句は珍しい。だから、逆に際立つ。競馬ファンなら、ポンと小膝の一つも叩きたくなるはずだ。ただし、このような句はよほどの競馬好きの人にしか作れないだろう。場数を踏んでいないと、なかなか競馬場の池などには目が行かないし、ましてやそこに浮かぶ小さな鴨なんぞに気がつくはずもないからである。競馬好きの目と俳句好きの目が交互に影響しあって、はじめて成立した作品だ。このとき、作者にとっての肝心のレースはどうなっているのだろうか。もはや私には、想像できかねる世界だ。二十数年前、中山の有馬記念でしたたかにやられ、文字通りにとぼとぼと北風吹くオケラ街道を戻って以来、ふっつりと止めてしまった。『八頭』(1985)所収。(清水哲男)




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