押しつけだと嫌う人がいる。だが、戦争犠牲者達の無念の血で贖われた憲法であることも忘れるな。




2000ソスN5ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0352000

 新緑に吹きもまれゐる日ざしかな

                           深見けん二

薫る季節。しかも、今日は極上の天気である。新緑の葉のそよぎが、ことのほかに美しい。日ざしを乱反射してキラキラと光る新緑の様子は、いつまでも見飽きるということがない。それを作者は、風に新緑の木の葉が吹きもまれているのではなく、「日ざし」が若い木の葉のそよぎに「もまれゐる」のだと詠んでいる。ほとんど風を言わずに、句の中心に風の存在を言っている。だから一見すると、才知の瞬間的な勢いでこしらえた句のようにも思えるが、そうではない。深見けん二の「ものに目を置く時間の長さ」(斎藤夏風)が、じっくりと対象を発酵させてから、あわてず騒がずに落ち着いて採り入れた世界なのだ。たとえ同様の発想は獲得しえても、芸達者な才気煥発型の詠み手だと、なかなかこう静かにはおさまらないだろう。対象をしっかりと見据え、見据えているうちに、ぽとりと表現が手のひらに落ちてくる……。虚子直門の作者の句風は一貫してそのようであり、この俳句作法そのものが読者の心をしっかりと捉えて離さない。『花鳥来』(1991)所収。(清水哲男)


May 0252000

 行く春のお好み焼きを二度たたく

                           松永典子

きに人は、実に不思議で不可解な所作をする。「お好み焼き」ができあがったときに、「ハイ、一丁上りッ」とばかりにコテでポンと叩くのも、その一つだ。たいていの人が、そうする。ただし、街のお好み焼き屋にカップルでいる男女だけは例外。焼き上がっても、決して叩いたりはしない。しーんと、しばし焼き上がったものを見つめているだけである。逆に、これまた不思議な所作の一つと言ってよい。句は、自宅で焼いている光景だろう。大きなフライパンかなんかで、大きなお好み焼きができあがった。そこで、すこぶる機嫌の良い作者は、思わずも二度叩いてしまった。ポン、ポン(満足、満足)。折しも季節は「行く春」なのだけれど、感傷とは無関係、これから花かつおや青海苔なんぞを振りかけて、ふうふう言いながら家族みんなで食べるのだ。元気な主婦の元気ですがすがしい一句である。ここで、いささかうがったことを述べておけば、作者は憂いを含む季語として常用されてきた「行く春」のベクトルを、180度ひっくり返して「夏兆す」の明るい意味合いを込めたそれに転化している。句が新鮮で力強く感じられるのは、多分にそのせいでもある。『木の言葉から』(2000)所収。(清水哲男)


May 0152000

 縄とびの純潔の額を組織すべし

                           金子兜太

心に縄とびをして遊んでいる女の子。飛ぶたびに、おかっぱの髪の毛が跳ね上がり、額(ぬか)があらわになる。この活発な女の子のおでこを、作者は「純潔」の象徴と見た。「純潔」は、いまだ社会の汚濁にさらされていない肉体と精神のありようだから、それ自体で力になりうる。「純真」でもなく「純情」でもなく「純潔」。一つ一つの力は弱かろうとも、かくのごとき「純潔」を「組織」することにより、世の不正義をただす力になりうると、作者は直覚している。このとき「すべし」は、他の誰に命令するのではなく、ほかならぬ自分自身に命令している。自分が自分に掲げたスローガンなのである。実は今日がメーデーということで、ふっとこの句を思い出した。メーデーのスローガンも数あれど、すべてが他への要求ばかり。もとよりそれが目的の祭典なので難癖をつける気などないけれど、句のようなスローガンがついに反映されることのない労働運動に、苛立ちを覚えたことはある。若き兜太の社会に対する怒りが、よく伝わってくる力作だ。無季句。『金子兜太全句集』(1975)所収。(清水哲男)




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