May 052000
鯉幟なき子ばかりが木に登る
殿村菟絲子
年中行事は、否応なく貧富の差を露出するという側面を持つ。鯉幟は戸外での演出行事だから、とりわけて目立ってしまう。住宅事情から、現代の家庭では男の子がいても、鯉幟を持たないほうが普通になってきた。持ってはいても、ささやかなベランダ用のミニ版が多い。私が子供のころはまだ事情が違っていて、鯉幟のない家は、たいてい貧乏と相場が決まっていた。我が家にも、もちろんなかった。そういう家庭では、こどもの日だからといって、御馳走ひとつ出るわけじゃなし、学校が休みになるだけのこと(農繁期休暇とセットになっていたような……)で、普段と変わらぬ生活だった。そんな子供たちが、いつもと同じように木登りをして遊んでいる。遠くのほうで勇ましく鯉幟が泳いでいる様子が、見えているのだろう。いささかの憐愍の情も抱いてはいるが、しかし作者は、今日も元気に遊ぶ子供たちにこそ幸あれと、彼らの未来に思いを馳せている。句には、そうした優しいまなざしのありどころがにじみ出ている。優しくなければ、句作りなどできない。平井照敏編『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)
May 042000
酒置いて畳はなやぐ卯月かな
林 徹
卯月は、ご存知のように陰暦四月の異名。卯の花の咲く月という意味で、初夏の月。今年は、本日から卯月がはじまった。何かの会合での情景だろう。句会だとしても、よさそうだ。いずれにしても、これから真面目な集いが開かれようとしている部屋の隅の畳の上に、参加者の誰かが持参した酒瓶がそっと置かれた。もちろん、会が終わったらみんなで楽しく飲もうというわけだ。それでなくとも開け放った窓からは心地よい外気が流れ込んできているのだし、ひとりでに心はずむ感じがしてくる。だから、このときをつかまえる表現としては、座の全体がはなやいだと言うよりも、やはり作者の心をひそかに反映しているかのような「畳はなやぐ」でなければならない。酒飲みにしか理解されない句かもしれないけれど、実に飲み助の心理的なツボを心得た、まことにニクい一句と言うべきか。今日あたりは、日本中のあちこちで「畳はなやぐ」集いが開かれることだろう。ちなみに「卯月」はまた「花残月(はなのこりづき)」とも呼ばれてきた。北海道などのソメイヨシノは、この季節に花開くからである。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)
May 032000
新緑に吹きもまれゐる日ざしかな
深見けん二
風薫る季節。しかも、今日は極上の天気である。新緑の葉のそよぎが、ことのほかに美しい。日ざしを乱反射してキラキラと光る新緑の様子は、いつまでも見飽きるということがない。それを作者は、風に新緑の木の葉が吹きもまれているのではなく、「日ざし」が若い木の葉のそよぎに「もまれゐる」のだと詠んでいる。ほとんど風を言わずに、句の中心に風の存在を言っている。だから一見すると、才知の瞬間的な勢いでこしらえた句のようにも思えるが、そうではない。深見けん二の「ものに目を置く時間の長さ」(斎藤夏風)が、じっくりと対象を発酵させてから、あわてず騒がずに落ち着いて採り入れた世界なのだ。たとえ同様の発想は獲得しえても、芸達者な才気煥発型の詠み手だと、なかなかこう静かにはおさまらないだろう。対象をしっかりと見据え、見据えているうちに、ぽとりと表現が手のひらに落ちてくる……。虚子直門の作者の句風は一貫してそのようであり、この俳句作法そのものが読者の心をしっかりと捉えて離さない。『花鳥来』(1991)所収。(清水哲男)
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