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2000ソスN5ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0652000

 竹陰の筍掘りはいつ消えし

                           飴山 實

いさきほどまで黙々と筍を掘っている人を見かけたが、いつの間にか、その人の姿はかき消されたように見えなくなっている。作者もまた、同じ竹林のなかで掘っているのだろう。暗く湿った竹の陰での、ほとんどこれは幻想に近い光景だ。単なる実景写生を越えて、句は濃密な歴史的とも言える時間性を帯びている。読んだ途端に、私は村上鬼城の「生きかはり死にかはりして打つ田かな」を思い出した。鬼城は遠望しているが、作者はより対象に迫った場所から詠んでいる。昔から人はあのように竹林に現れては筍を掘り、またこのようにふっと姿を消していく。その繰り返しに思われる人間存在のはかなさは、もとより作者自身のそれなのでもある。しかし、作者は侘びしいなどと言っているのではない。筍堀りに込められた充実した時間性が、ふっふっと繰り返し消えていく。消えたと思ったら、また繰り返し現れる。その繰り返しのなかで、人は人らしくあるしかないのだ。いわば達観に近い鬱勃たる心情が、句の根っこに息づいている。『花浴び』(1995)所収。(清水哲男)


May 0552000

 鯉幟なき子ばかりが木に登る

                           殿村菟絲子

中行事は、否応なく貧富の差を露出するという側面を持つ。鯉幟は戸外での演出行事だから、とりわけて目立ってしまう。住宅事情から、現代の家庭では男の子がいても、鯉幟を持たないほうが普通になってきた。持ってはいても、ささやかなベランダ用のミニ版が多い。私が子供のころはまだ事情が違っていて、鯉幟のない家は、たいてい貧乏と相場が決まっていた。我が家にも、もちろんなかった。そういう家庭では、こどもの日だからといって、御馳走ひとつ出るわけじゃなし、学校が休みになるだけのこと(農繁期休暇とセットになっていたような……)で、普段と変わらぬ生活だった。そんな子供たちが、いつもと同じように木登りをして遊んでいる。遠くのほうで勇ましく鯉幟が泳いでいる様子が、見えているのだろう。いささかの憐愍の情も抱いてはいるが、しかし作者は、今日も元気に遊ぶ子供たちにこそ幸あれと、彼らの未来に思いを馳せている。句には、そうした優しいまなざしのありどころがにじみ出ている。優しくなければ、句作りなどできない。平井照敏編『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 0452000

 酒置いて畳はなやぐ卯月かな

                           林 徹

月は、ご存知のように陰暦四月の異名。卯の花の咲く月という意味で、初夏の月。今年は、本日から卯月がはじまった。何かの会合での情景だろう。句会だとしても、よさそうだ。いずれにしても、これから真面目な集いが開かれようとしている部屋の隅の畳の上に、参加者の誰かが持参した酒瓶がそっと置かれた。もちろん、会が終わったらみんなで楽しく飲もうというわけだ。それでなくとも開け放った窓からは心地よい外気が流れ込んできているのだし、ひとりでに心はずむ感じがしてくる。だから、このときをつかまえる表現としては、座の全体がはなやいだと言うよりも、やはり作者の心をひそかに反映しているかのような「畳はなやぐ」でなければならない。酒飲みにしか理解されない句かもしれないけれど、実に飲み助の心理的なツボを心得た、まことにニクい一句と言うべきか。今日あたりは、日本中のあちこちで「畳はなやぐ」集いが開かれることだろう。ちなみに「卯月」はまた「花残月(はなのこりづき)」とも呼ばれてきた。北海道などのソメイヨシノは、この季節に花開くからである。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)




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