アイスクリームの日。昔からの木のヘラみたいな匙のデザインが好きだ。あれでないと美味くない。




2000ソスN5ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0952000

 ぽつつりとおのが名知らぬ蛇苺

                           川島千枝

には失礼な話だが、蛇くらいしか食べないとされていたので「蛇苺」。別名を「毒苺」とも。しかし毒性はないそうで、食べられるがとても不味いということは、本欄で以前書いたことがある。食べたのは、私ではない。もっと勇気のある男だ。最近は見かけたこともないが、子供のころにはそこらへんに自生している、ありふれた植物だった。熟すと見事なほどに真っ赤な色になり、「毒苺」の先入観から「ああ、毒の色とはこういうものか」と思っていた。時として、華麗なるものは、その華麗さゆえに誤解され、うとんじられる。そんな人間間の評判も知らず「おのが名」も知らないで、「ぽつつり」と実をかかげている植物を、作者は哀れとも思い健気とも思い、哀しみを感じている。まことに理不尽な命名ではないか、と。「ぽつつりと」は「蛇苺」の立つ様の写生であると同時に、このときの作者の気持ちのありようでもある。「ぽつつりと」……か。しみじみと心に入ってくるいい言葉ですね。『深祷』(2000)所収。(清水哲男)


May 0852000

 青草の朝まだきなる日向かな

                           中村草田男

だすっかり夜の明けきらぬころ、窓を開けると、今日もいい天気。勢いよく生い茂る夏草の上には、早くも朝日が日向をつくっている。すがすがしく心地よい情景だ。胸中には、おのずから今日一日を生きるための活力がわいてくるようである。草田男は夏が好きな人で、「毒消し飲むやわが詩多産の夏来る」は有名。事実、夏の句を多く残した。ところで、仕事との関係からではあるが、四十代以降からの私は早起きになった。それまでは午前四時ころに寝ていたのが、百八十度回転した。だから、私にこの句の味わいがわかったのは、二十年前くらいのことだった。これからの季節、しばらくは毎朝、青草の日向が楽しめる。たまさか曇っている朝だと、なんだか大損をしたような気にすらなってしまう。「朝日影」という言葉があって、辞書的定義では「朝の光」をさすが、これは早朝の日差しがもたらす「光」と「影」のコントラストの美しさを言った言葉だと思う。昔かよった田舎の小学校の校歌に、いきなり「朝日影」と出てきた。作詞者は、その学校の教師だったと記憶している。きっと、早起きの大好きな先生だったのだろう。『長子』(1937)所収。(清水哲男)


May 0752000

 遠足をしてゐて遠足したくなる

                           平井照敏

読、膝を打った。こういう思いは、私にも時々わいてくる。こんな気持ちには、何度もなった覚えがある。映画を見ているのに映画が見たくなったり、酒の席で無性に酒が飲みたくなったりするのだ。実際にはその行為のなかにあるというのに、なおその行為の別のありように魅かれてしまう。そう言えば、恋愛中には必ず恋愛をしたくなるという友人の話を聞いたこともある。どういうことだろうか。図式的に言えば、現実と理想とのギャップのしからしむるところなのだろう。楽しみにしていた遠足にいざ出かけてみると、こんなはずじゃなかった、もっと楽しいはずなのにと思ううちに、現実の行為が空虚になっていく。空虚になった分だけ、現実を認めたくなくなる。だんだん、こんなのは遠足じゃないと自己説得にかかりはじめる。そして、ああ(本当の)遠足に行きたいなあと思ってしまうのだ。「旅行の楽しさは準備段階にある」と言ったりする。準備段階にあるうちの理想は、実行段階での現実に裏切られることはないからだ。この種の思いは、現実をまるごと受け入れたくない気質の人に、多くわいてくるのだろう。いわゆる「気の若い人」に、特に多いのではあるまいか。「俳句研究」(2000年5月号)所載。(清水哲男)




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