隘ソ驥取枚莉」縺ョ句

May 2752000

 たぶんもう来ないとおもふ馬刀がゐる

                           西野文代

刀(まて)は「馬蛤貝(まてがい)」あるいは「馬刀貝」で春の季語。もう、旬は過ぎているだろう。アンチョコによれば「マテガイ科の横長筒状の二枚貝。殻長は十二センチほど。美味」とある。干潟の生息穴に塩を入れると、反射的に飛び出してくるというから、面白い動きをする貝である。正岡子規に「面白や馬刀の居る穴居らぬ穴」がある。あまり海には出かけないので、見たことがあるようなないような……。アレがそうだったのだろうかとも思うが、自信なし。句を採り上げたのは、「たぶんもう来ないとおもふ」という発想に魅かれたからだ。旅に出て、自然にこう思うようになるには、それなりの年齢が必要だ。若い頃には、皆無に近い思いだろう。それがいつしか、どこに出かけてもこんな気持ちになる。その気持ちを、元気で剽軽な動きの馬刀に結びつけたところが句の魅力だ。「何をそんなに感傷的になってるの」。このときの馬刀は、そんな顔(?!)をしている。今日の私は、一年に一度の旅行に出かける。職業柄ウィークデーの休暇はとりにくく、たった一泊しかできないけれど、楽しみだ。きっと、先々で「たぶんもう来ないとおもふ」のだろう。「俳句界」(2000年6月号)所載。(清水哲男)


July 2472000

 盗品にあらずよ買へや陶まくら

                           西野文代

まくらは「陶枕(とうちん)」。中国や韓国から輸入され、ひやりと冷たく、昼寝には絶好の枕だ。縁日の一齣だろう。香具師(やし)が熱弁をふるって、陶まくらを売っている。破格の安さをいぶかる客に、盗んできたわけじゃないよと笑わせている。香具師の口上の定番ではあるが、何度聞かされても楽しい。香具師の言葉だけで、縁日気分を盛り上げた句だ。といって、買う気持ちもないのだけれど……。盗品の「とう」と陶まくらの「とう」との響きあいも愉快。それにしても、縁日では不思議なものを売っている。見ていると、必ずそれを買う人もいる。昔、その筋の人に聞かされた話によると、最初に買う何人かは、たいていが「サクラ」だそうな。「サクラ」の見分け方も教えてくれた。買う客の靴を見ろ。それだけである。たとえば、どのように貧しそうなナリをしていても、どういうわけか靴だけはピカピカだったりするのだという。足下を見られないように、足下だけはやつさないというのが、この種の業界に生きる人たちの鉄則だからだと、彼は言った。男も女も。以来、縁日での客の足下を見る癖がついてしまい、なるほどと思われる場面に何度か出くわした(ような気がした)。最近の縁日は、こうした業界の人たちをオミットするところが多い。明るいインチキの楽しさがなくなった寂しさ。『おはいりやして』(1998)所収。(清水哲男)


May 1852002

 夏に入るや亀の子束子三つほど

                           西野文代

語は「夏(げ)に入る(夏入)」で夏。立夏や夏至のことではない。僧侶が、屋内に籠って静かに行を修することをいう。期間は必ずしも一定していないようだが、だいたい旧暦四月中旬から七月中旬までの間で、「安居(あんご)」「夏行(げぎょう)」などとも。この期間、外に出ると蟻やその他の虫を踏み殺すというので、一切外出しないのが本来の夏入だという説もある。お坊さんも大変だ。作者は寺の多い京都の人だから、ふとそのことを思い出して、お坊さんほどに精進はできないにしても、せめて家中の汚れものや浴室をピカピカに磨こうかと「亀の子束子(かめのこたわし)」を求めたのだろう。一つではなく「三つ」も買ったところに、気合いを入れた感じが出ている。作者によれば、求めた店は先斗町北詰にある荒物屋。「そこだけがまるで時代から取り残されたように昔のたたずまいを残している。荒物屋といっても棕櫚製品だけを扱っている店だ。今どき、こんなものがと思われるようななつかしい品々がひっそりと並べられている。荒神箒の大中小、刷毛の大中小、更に豆刷毛の大中小、縄も太いの細いのに中細。柄付束子の大中小に亀の子束子の大中小。……」。しかも、店番をしているのが「大正か昭和のはじめ頃から抜け出てきたような小母さん」だというから、ここで「夏入」の季節を思い出すのはごく自然のことかもしれない。それにしても、京都にこんな店が生き残っているとは。どなたか発見されましたら、ご一報を。『おはいりやして』(1998)所収。(清水哲男)


January 0212004

 懸想文売りに懸想をしてみても

                           西野文代

語は「懸想文売(けそうぶみうり)」で新年。現代の歳時記には、まず載っていないだろう。江戸期の季語だ。「懸想文」とは艶書、ラブレターのことだが、まさかラブレターを売ってまわったわけじゃない。曲亭馬琴の編纂した『俳諧歳時記栞草』(岩波文庫)に、こうある。「鷺水云、赤き袴、立烏帽子にてありく也。銭を与へつれば、女の縁の目出たく有べしといふことを、つくり祝して洗米をあたへ帰る也。今は絶て其事なければ、恋の文のやうに覚えたる人も有故に、口伝をこゝにしるしはべる」。要するに、良縁を得る縁起物を売り歩いた男のことである。馬琴の生きた18世紀後半から19世紀半ばのころにも、既に存在しなかったようで、「それって、なに?」の世界だったわけだ。ところが、ところが……。1923年に京都で生まれた作者は、馬琴も見たことのない「懸想文売り」に、実際に会っている。こう書いている。「その年の懸想文売りは匂うように美しかった。おもてをつつむ白絹のあわいからのぞく切れ長な目。それは、男であるということを忘れさせるほどの艶があった」。で、掲句ができたわけだが、ううむ、いかな京都でもそんな商売が成り立っていたのだろうか。作者は、八百円で買ったというが……。その日は、ちょうど波多野爽波の句会があって、さっそく作者がこの題を出したところ、爽波が言ったそうだ。「誰ですか。こんな作りにくい題を出したのは」。たしかに作りにくかろうが、しかし懸想文売りの存在は爽波も一座の人も知っていたことになる。で、その席で爽波が作りにくそうに作った句が、「東山三十六峰懸想文」。何のこっちゃろか。『おはいりやして』(1998)所収。(清水哲男)


June 2662008

 ほうたると息を合はせてゐる子かな

                           西野文代

い頃は高度成長で町中の川は汚れきっており、初めて蛍を見たのはかなり遅かった。真っ暗な道で青白く光るものが胸の辺りを横切ったときには、うわっとばかりにのけぞってしまった。一匹だけ飛んできた蛍は今まで見たどんな灯りにもない冷たい色を帯びていて都会育ちの私には少し不気味だった。掲句の子供はそんな私と違い蛍と馴染みのようだが、どんな場所で蛍と向き合っているのだろう。川の傍らの草に止まっているのを見つけたのか、それとも明りを消した部屋の蛍籠だろうか。「蛍」を「ほうたる」と少し間延びしたゆるやかな音を響かせることで、蛍にじっと見入っている子供がその光にあわせて深く息を吸っては、吐いている時間が伝わってくる。読み手も自分の息を「ほうたる」と、ゆっくりしたリズムに重ねてみることでその様子を実感をもって想像できる。テレビの音も車の音もしない、ただしんとした闇のなか光で語りかけてくる蛍との豊かな対話をこの子は味わっているのだろう。『ほんたうに』(1990)所収。(三宅やよい)


January 1612009

 東山三十六峰懐手

                           西野文代

文字の句である。句の表記について漢字にするか、ひらがなにするかはときどき迷うところ。例えば、桜と書くか、さくらと書くか。(もちろん櫻と書く選択もあろうが)ひらがなにするとやわらかい感じになる。あるいはさくらのはなびらの質感が出ると思われる方も居るかも知れない。一方で、桜と書くと一字であるために視覚的に締って見える。さくらは拡散。桜は凝固である。俳句は散文や散文的な短歌に対し凝固の詩であるとみることもできる。一個の塊りのような爆弾のような。この名詞をどうしてひらがなにしたのですかと尋ねると、あまり漢字が多くて一句がごつごつするのでと言われる作者もいる。僕なら凝固、凝集の効果の方をとる。この句、だんだん俯瞰してゆくと一行がやがて一個の点にみえてくるだろう。俳句表現が一個の●になるような表記。俳句性の極致。別冊俳句『平成俳句選集』(2007)所収。(今井 聖)


April 1742010

 からすゐてなんのふしぎぞ烏の巣

                           西野文代

がうるさくて眠れなかったと花魁がぼやいた、という江戸時代の文献があるとか。昔は神の使いだった烏もその頃から、身近な存在である反面やっかいなカラス、となってしまったのだろうか。都会のカラスが、枝のかわりに針金など光るものを選んで巣を作ると聞いてはいたが、昨年、色とりどりのハンガーらしきものでできた巣を目の当たりにして、あらためてそのたくましさと賢さに驚いた。確かにカラスといえば、ゴミ集積所で餌を漁っているとか、枯れ枝にとまっているとか、勝手に決めているふしがあり、巣におさまっている、というのはなんとなく不似合いな気がしてしまう。掲出句の作者にも同様の心持ちがあると同時に、カラスに対する視線は優しい。そしてそのおおらかな詠みぶりに、都心にしては大きい森で鳴き交わしていた、春の鳥らしいカラスを思い出した。これからの季節、少し神経質になったカラスが多少恐くてもうるさくても、ご近所に住む者同士、と思うことにしようか。『それはもう』(2002)所収。(今井肖子)


June 1062010

 おまへまで茹でてしまうたなめくぢり

                           西野文代

年の5月に西野文代さんが八十七回目の誕生日を迎えられた。それを記念して「爽波を読む会」に集まった仲間たちの鑑賞文を集めた『なはとびに』が上梓された。一読、作品の魅力を引きだす鑑賞の面白さと同時に選び出されている西野さんの俳句のおおらかさ、自在さに魅了された。掲句は青菜の裏についていたなめくじが、ぷかっとお湯に浮かびあがってきたのだろうか。「おまへまで」の「まで」に野菜を茹でるにも、はい食べさせてもらいますよ、熱いけどごめんなさいよ。と言った心持ちであり、それに加えて何も知らないで青菜を食べていたおまえまで茹でてしまうた、罪なことをしたなぁと語りかけているすまなさが感じられた。そんな作者の優しい気持ちが文語表記の柔らかさに生かされている。森羅万象、動物や虫たちのいのちと同等に付き合えるようになり、その気持ちがそのまま俳句になるには俳人としての修練以上に人としての年季が必要なのだろう。なめくじを見つけたら塩をかけて喜んでいる自分なんぞは到底その境地に至れそうにない。「なんぢ毛虫雨粒まみれ砂まみれ」「へちまぞなもし夜濯の頭に触れて」『なはとびに』(2010)所収。(三宅やよい)


April 1442011

 あつ雉子あつ人だちふ目が合うて

                           西野文代

物の雉子にはなかなかお目にかかれないが、名古屋に住んでいたころ、山林を切り崩して宅地を造成している道へ出てきた雉子を見かけたことがある。もちろんそばには近寄れず、遠くから双眼鏡で眺めただけだったが、住み場所を荒らされたあの雉子はどこへ行ったやら。それにしてもこの句、山道かどこかでばったり雉子と鉢合わせをしたのだろうか。「あ、雉子」と声にならない声をあげている人の驚きは勿論のこと、雉子の目にも狼狽の色を読み取っている。こういう出会いは人間からの視点になりがちだけど、目を白黒させている雉子の気持ちになって「あ、人だ」と言わせているのがおかしい。ほんとに雉子は焦っただろうな。仮名遣いの妙を生かして瞬間の情景を生き生きと描き出している。いいなぁこういう句。『それはもう』(2002)所収。(三宅やよい)


August 1882011

 へちまぞなもし夜濯の頭に触れて

                           西野文代

のカーテンと称して、陽のあたるベランダにゴーヤの葉を茂らせる今年の流行にのって、うちも育ててみた。どうにかいくつかぶらぶらと実を結び、毎日大きくなるのを楽しみにしていた。日除けと言えば糸瓜の棚もその一種だろう。「糸瓜」と聞けば子規を連想するが、「へちまぞなもし」は松山言葉。夜濯のものを干した頭に棚の糸瓜がごつんとあたる。「あいた」と言う代わりにこんなユーモラスな言葉が口をついて出てくれば上等だ。へちまがぼそっと呟いていると考えても面白い。野菜や果物を毎日大切に育てていると彼らの声が聞こえるという話を聞いたことがあるが、ゴーヤの声が響いてこない私はまだまだってことだろう。『それはもう』(2002)所収。(三宅やよい)


June 1462012

 ままこのしりぬぐひきつねのかみそりと

                           西野文代

物の固有名詞をならべただけなのにまるでお話のようだ。「ままこのしりぬぐい」はタデ科の一年草で、先っちょを紅く染めた小花が固まって咲いていると植物図鑑にはある。道端で通り過ぎても言い当てることはできそうにないが、どうしてこんな面白い名前がついているのだろう。きつねのかみそりは飯島晴子の「きつねのかみそり一人前と思ふなよ」が有名。こちらはどこかの木の茂みでホンモノを見たことがあるが、地面からひょろっと花が突き出た特異な姿だった。有毒植物ということで、こんな名前がついているのだろうか。二つ並べると「ままこの尻」、の柔らかさと、「キツネとかみそり」の配列に危うさと痛さが感じられる。嘱目で作った句かもしれないが、取り合わせた言葉が呼び寄せる不思議な世界を直観的に感じとるセンスがないとこんな句は出来ないだろう。『それはもう』(2002)所収。(三宅やよい)


October 25102012

 通称はちんぽこ柿といふさうな

                           西野文代

の年になると「ちんぽこ」なんて言葉を聞いても笑って通りすぎることができるけど若くて気取ってた頃は聞くだけで恥ずかしかった。坪内稔典著『柿日和』によると、柿の名前は同じ品種でも地方によって異なるらしい。調べてみると「ちんぽこ柿」は「珍宝柿」先がとがった筆柿の呼び名のようだ。なんともユニークな名前。少しこぶりのこの柿が籠に5つ、6つ盛られている様子を思うと可愛らしく感じられる。初めてこの名前を知って「そうなん!」と合点した作者の嬉しがりようも伝わってくるようだ。次郎柿、富有柿など数ある柿の名前の一つとして、歳時記の「柿」の項にこの句を置いてみたい。気取りなく、秋を彩る柿の心やすさにぴったりに思える。『それはもう』(2002)所収。(三宅やよい)


October 16102014

 焼藷を二つに割つてひとりきり

                           西野文代

の頃は温暖化防止のためビルの屋上にサツマイモを植える企業を増えているという。雨風や日照りなどの厳しい環境にも強く葉を茂らせ、何より収穫の喜びがあるから人気なのだろう。何といってもサツマイモがおいしいのは今頃の季節。ピーと煙突を鳴らして屋台を引きながら焼き芋屋がやってくる。アツアツの焼き芋を新聞紙にくるんでもらう。家で作るふかし芋とは焦げ目のついた皮のぱりぱり感、割った時のしっとりホカホカ具合が全然違う。さて掲句では二つに割って湯気のたっている片方を「はいっ」と渡す相手もいない。こんな時一人で暮らす味気なさがつくづく感じられるものだ。アツアツの焼き芋だからこそ「二つ」と「ひとりきり」の対比に分け合う相手のいない寂しさを感じさせる。『それはもう』(2002)所収。(三宅やよい)




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