理想的な老爺役のエースが笠智衆なら、父親役のそれは山村聡だった。存在自体がいつも懐しかった。




2000ソスN5ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 3052000

 忽ちに雑言飛ぶや冷奴

                           相馬遷子

言(ぞうごん)が飛ぶというのだから、酒盛りの図だ。すなわち、酒の肴としての「冷奴」。酒の場に季節物の「冷奴」が出されたことで、みんなが大いに愉快を覚え、忽ち(たちまち)べらんめえ調も飛び出す楽しい座となった……。この句は、いろいろな歳時記に登場してくる。目にするたびに、内心、どこがよいのかと目をこすってきた。ささやかな「冷奴」ごときに、なぜこんなにも男たちの座が盛り上がったのか。謎だった。ところが最近、山本健吉の『俳句鑑賞歳時記』(2000・角川ソフィア文庫)を読んでいて、謎ははらりと解けることになった。句が作られたのは、戦後も一年目の夏。場所は函館。詞書に「送迎桂郎」とあり、座には戦災で家を失った石川桂郎がいた。「べらんめえ」の主は、おそらく桂郎だろう。すなわち、ひどい食料難の時代で、豆腐はとんでもない「貴重品」だったのである。それが、夢のように目の前に出てきた。愉快にならずにいられようか。各歳時記の編纂者や編集者たちは桂郎や遷子らと同世代か少し上の世代だったので、句はハラワタにしみとおるように理解できたことだろう。だから、かの時代の記念碑的な作品として、誰もが自分の歳時記にそっと残しておきたかったのである。「冷奴」よ、もって瞑すべし。(清水哲男)


May 2952000

 あきなひや蝿取リボン蝿を待つ

                           ねじめ正也

息のねじめ正一さんが有名にした「ねじめ民芸店」以前に、作者は高円寺(東京・杉並)で、乾物屋を営んでいた。私は二十代の頃、その店の前を通って出勤していたので、たたずまいもよく知っている。普通の店構えではあったが、乾物に加えて渋団扇などが並べられていたのが、ちょっと変わっていた。一度だけ、気まぐれに大きな赤い団扇を買ったことがあったっけ。乾物屋だから、夏ともなると昔(ちなみに1953年の作)は当然のことに蝿どもが群がってくる。防衛策としては、とりあえず蝿取リボンを何本も吊るすしかないわけだ。で、吊るし終えて店に座り込み、出てきた言葉が「あきなひや」であった。この呼吸が面白い。と言うか、商人でなければ発さない嘆息が、自然にぽっと吐かれている無技巧に感心してしまう。すなわち、蝿取リボンが蝿を待つように、自分もまた客を「待つ」しかない存在であるなアと、思わずも吐いてしまっているところ。「あきなひや」には、いささかの自嘲も含まれているとも読めるけれど、その前に、ふっと蝿取リボンと自分の姿を重ねてしまった驚きが感じられる。一瞬の後に、態勢を立て直してしかめっ面を取り戻しているところに、句の妙味がある。季語は「蝿取」で夏。もはや死語になっている。『蝿取リボン』(1991)所収。(清水哲男)


May 2852000

 されど雨されど暗緑 竹に降る

                           大井恒行

季句。この句については、十五年前の初出句集に寄せた拙文があるので、そのまま書き写しておきたい。いささかキザですが……。「この鮮烈なイメージは、そのまま私の少年時代につながってしまう。竹薮を控えた山の中の粗末な家。裏山で脱皮をつづける竹の音を聞きながら、私はあらぬことばかりを考えていたようだ。雨が来ると、はたして妄想は募ったのである。そしてその妄想は、暗い緑のなかでつめたく逆上するのが常であった。不健康というにはあたるまい。むしろ妄想は、少年において健康の証ではないのか。妄想の力を伸ばしきったところに、見えていたもの。もはや少年でなくなった者は、かつてそうして見えていたものの、いわば貯金の利子をあやつって、質素に散文の世を生きていくしかないのだと恩う。晴れた目に、精神のバランスを取る。その秤を手に入れたのは少年の日であったことを、むろん大井恒行も承知している」。このページの読者にわからないのは「晴れた目に、精神のバランスを取る」の部分だろうが、拙文の前段で、句は雨降りの日にではなく、逆に「晴天」のもとで書かれたのではないか。「鏡の裏に、ひとは詩を発見するものであるらしい」と、そんな私の推測を受けた文章である。『風の銀漢』(1985)所収。(清水哲男)




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