2000N6句

June 0162000

 六月の樹々の光に歩むかな

                           石井露月

月(1873-1928)は子規門。主として秋田で活躍した俳人だ。したがって、句の「六月」は東北の季節感で読むべきだろう。東京あたりで言えば、清々しい五月の趣きである。技巧も何も感じられない詠み方ではあるけれど、けれん味なくすっと詠み下ろしていて気持ちがよろしい。当月は梅雨期を控えていることもあり、どこか屈折した句の多いなかで、かくのごとくにすっと詠まれると意表を突かれた感じさえしてしまう。ただし、実はこの句は露月のなかでも異色の作品なのである。本領は、漢詩文的教養の上に立った男っぽい詠み方にあった。たとえば「赤鬼の攀じ上る見ゆ雲の峰」だとか「雷に賢聖障子震ひけり」など。心情を直截に表現する俳人ではあるが、大いなる技巧派でもあったことがわかる。これらの句に比べると、掲句のリリシズムは、とうてい同じ作者の懐から出てきたとは思えない。つまり、待望の「六月」にふっと技巧を忘れちゃった……ような。それほどに東北人にとっての「六月」は、待ちかねている月だということだろう。露月の生前に、句集はない。常日頃、「句集に纏めるのは、我輩の進歩が止まったとき」と言っていたそうだ。昭和に入ってから亡くなっているが、生涯明治の男らしい雄渾な心映えに生きた人物だったと思う。『露月句集』(1931)所収。(清水哲男)


June 0262000

 吾子着て憎し捨てて美しアロハシャツ

                           加藤知世子

手な身なりは、軽薄や不良に通ずる。旧世代は、総じてそんなふうに思いがちだ。いまどきの茶髪やピアスや厚底サンダルに違和感を抱くのも、やはり圧倒的に旧世代の人たちだろう。母親として、アロハシャツを着て得意になっている息子が心配で、心配のあまりに憎たらしくさえ見えてきた。「そんなものは捨てちゃいなさいっ」。で、いざ捨てるとなってよくよく見ると、句の心持ちになった。この気持ちのひっくり返り加減を正直に表現したところ、作者の困惑ぶりが、実に面白い。物の本によれば、アロハはホノルル在住の中国人が発案したものだという。言われてみると、なるほど中国風の色彩の美しさだ。日本には戦後渡ってきて、大流行した。なにしろお堅い歳時記ですら、季語として独立した項目を作ったくらいだから、とても無視などできなかったわけだ。その後はだんだんと「夏シャツ」の項目に吸収される傾向にあるが、現在いちばん新しい講談社の『新日本大歳時記』では、依然として独立項目の座を占めている。例句には「アロハ着て竜虎の軸を売り余す」(木村蕪城)など。ちなみに、私は一度も着たことがない。べつに旧世代の美意識に与したからではなく、単純に恥ずかしいからだ。それに浴衣と同様、あれは私のように痩せた男には似合わないと思う。『俳諧歳時記』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


June 0362000

 夕暮に白妙ふるへ月見草

                           藤間綾子

んだ途端に「あれっ」と思った方もおられると思う。「月見草」の花が「白妙(しろたえ)」とは、はて面妖な。黄色い花じゃなかったの、と。かくいう私も、実はついさっきまで知らなかったのですから、偉そうなことは言えません。月見草の花はまさしく「白妙」であり、暗くなると淡い紅色に変化するだけで、黄色とは無縁。河原などに自生していて、私(たち)が月見草と思い込んでいる黄色い花は「待宵草(まつよいぐさ)」と言い、同じアカバナ科ながら品種は異なるのだそうな。本物の月見草は、待宵草のような逞しさがないので野生化せず、いまではごく一部で栽培されているのみ。ということは、めったに見られない花ということになり、たぶん私は見たこともないのだろう。阪神タイガースの野村克也監督が自身を月見草になぞらえた話は有名だけど、あれはどっちの(笑)月見草だったのか。本物のなよなよした白い花ではなくて、偽物の逞しさを言ったように思われますが……。長く生きていても、知らないことはたくさんありますねエ。本物で、もう一句。「月見草見つめられゐて紅さしぬ」(杉田りゅう)。青柳志解樹『俳句の花・下巻』(1997)所載。(清水哲男)


June 0462000

 緑蔭に読みくたびれし指栞

                           辻田克巳

んやりとした日蔭での読書。公園だろうか。日差しを避けて、大きな木の下のベンチで本を読んでいるうちに、さすがにくたびれてきた。読んだページに栞(しおり)がわりに指をはさみ、あらためてぐるりを見渡しているという図。木の間がくれに煌めく夏の陽光はまぶしく、心は徐々に本の世界から抜け出していく。体験された読者も多いだろう。「指栞」が、よく戸外での読書の雰囲気を伝えている。これからの季節、緑蔭で読むのもよいが、私にはもう一箇所、楽しみな場所がある。ビアホールだ。それも、昼さがりのがらんとした店。最高の条件にあるのが、銀座のライオン本店だけれど、残念なことに遠くてなかなか足を運べない。若いころに、あそこで白髪の紳士が静かにひとり洋書を読んでいるのを見かけて、憧れた。さっそく試してみたかったが、若いのがあそこで読む姿はキザで鼻持ちならない感じになると思い、五十歳くらいまでは自重していた。で、「もう、よかろう」と思う年齢になって試してみたら、これが快適。適度なアルコールには雑音を遮る効用があるので、驚くほどに本に没入できたのだった。以来、ビアホール読書に魅入られている。当然のように、疲れると「指栞」となる。『今はじめる人のための俳句歳時記・夏』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


June 0562000

 葛切やすこし剩りし旅の刻

                           草間時彦

車が出る時刻までには、まだ少し時間が剰(あま)っている。そこで小休止も兼ねて、駅近くの茶店で名物の葛切(くずきり)を賞味している。口あたりのよい葛切と旅心がマッチした粋な一刻。誰しも覚えがあるように、旅先ではこのように、ちょこちょこと時間があまってしまう。この少しあまった時間をどう使うのかも、旅を楽しむ重要なポイントだろう。土産を買いに走り回っている人、待合室で所在なげに新聞を読んでいる人。さらには私のように、どこにでもある雑誌を本屋で漫然と立ち読みする人など……。そんな時間に、旅の名人だと句のように、ちゃんとその土地ならではのものを味わっていたりするのだから敵わない。そのことが身にしみてわかるのは、帰りの列車の中だ。いままで旅してきたところの印象を語り合っているうちに、私が気がつきもしなかった数々の見聞や体験話が披露されてきて、いつも打ちひしがれる思いになる。同じように動いていても、同行のそれぞれが吸収したものは大きく違っているというわけだ。ことさらに教訓めかすつもりはないけれど、このことはおそらく、人生という旅にも当てはまりそうである。『夜咄』(1986)所収。(清水哲男)


June 0662000

 白服にてゆるく橋越す思春期らし

                           金子兜太

葉仁に「若きらの白服北大練習船」がある。白服の若者たちはいかにも清々しく、力強く、そして軽快だ。ところが、掲句の少年(少女)は反対に、のろのろと重い足取りで橋を渡っている。作者との位置関係だが、同じ橋を渡っているのではないだろう。たぶん作者は橋を見上げる河辺の道にいて、気だるそうな少年(少女)の歩行が気になっているのだと思われる。橋上に、他の人影はない。じりじりと照りつける太陽。そこで作者は、その鈍重な歩みの原因を、「思春期」の悩みゆえと見てとった。もとより客観的な根拠などないわけだが、とっさに作者の心は、みずからの「思春期」のころに飛んでいったのである。その意味で、句は自分自身の過去を詠んだ歌とも言え、それゆえに橋上の若者に注ぐまなざしは慈しみに近い愛情に満ちている。辛いだろうが、乗り越えるんだよ……。なあに、君だったら、すぐに克服できるさ……。そんな慈眼が働いている。白服を歌って、異色の作品。しかも、何の衒いもないところに、作者の人柄がよくにじみ出ている。『金子兜太全句集』(1975)所収。(清水哲男)


June 0762000

 池の鯰逃げたる先で遊びけり

                           永田耕衣

からない。と思えば、何もわからない句。客観写生句ではないからだ。でも、かと言って何かの事象の象徴句でもないし抽象句でもない。作者としては、ありのままに文字通りに、具象句として読んで欲しいのだと思う。他ならぬ私がそうなのだが、私たちはちょっと「わからない」句に出会うと、すぐに解釈したがってしまう。とにかく、理屈で解き明かそうとする。まるで病気のように、「わからない」自分が許せないのだ。だから、それこそ句を「遊べ」ない。耕衣句の多くは、そんな現代病をからかっているようにすら写る。鯰(なまず)が「逃げたる先」で、逃げたこともすっかり忘れちゃって、あっけらかんと遊んでいる。ただ、それだけのこと。いつまでもじくじくと過去にこだわらない(正確に言えば、こだわれない)鯰のありようを、作者は素朴に「いいな」と思い、その思いをそのまま読者に手渡してくれている。句に禅味があるのかどうかは知らないが、近ごろの私などには羨望に値する世界と写る。心弱き日に思い出すと、元気が出てきそうな一句だ。おっと、いけない。またぞろ悪い病気が顔を出しかけてきた……(笑)。『自選永田耕衣句集』(1980)所収。(清水哲男)


June 0862000

 三十年前に青蚊帳畳み了えき

                           池田澄子

すがの着眼。機知に富んでいて、しかもあざとくない。いつもながらセンスのよい俳人だ。そう言えば、蚊帳を吊らなくなって何年くらいになるだろう。句のように、間違いなく三十年は吊っていない。住環境によるわけだが、現在も蚊帳の必要なお宅は、この国にどのくらいあるのだろうか。ついでに、値段も知りたくなる。ところで、柴田宵曲『古句を観る』(岩波文庫)に面白い蚊帳の句あり。「蚊屋釣りていれゝば吼る小猫かな」(宇白)。蚊帳に入れてやったら、小猫が吼(ほ)えたというのである。まさか猫が吼えるわけもあるまいが、異常に興奮した様子を詠んだようだ。吼えたのは元禄の小猫だからではなく、吉村冬彦(寺田寅彦)の随想にも出てくると宵曲が紹介している。「どういうものか蚊帳を見ると奇態に興奮するのであった。殊に内に人がいて自分が外にいる場合にそれが著しかった。背を高く聳やかし耳を伏せて恐ろしい相好をする。そして命掛けのような勢で飛びかかってくる。……」。蚊帳には、猫を挑発する魔力でもあるのだろうか。もっとも、いまでは人間の子供だって吼えるかもしれないけれど(笑)。『いつしか人に生まれて』(1993)所収。(清水哲男)


June 0962000

 亡き母の石臼の音麦こがし

                           石田波郷

かけなくなりましたね、麦こがし。新麦を炒って石臼などで引き、粉にしただけの素朴な食べ物。砂糖を入れてそのままで食べたり、湯や冷水にといて食べたりします。東京では「麦こがし」、関西では「はったい」と言うようですが、我が故郷の山口では「はったいこ(粉)」と呼んでいました。地方によっては「麦焦(むぎいり)」「麦香煎(むぎこうせん)」とも。「はったい」命名の由来には諸説あり、「初田饗(はつたあえ)」から来たといううがった見方もあるとのこと。ところで私にもイヤというほどの経験がありますが、麦や豆を石臼で引く仕事は、単調で退屈でした。それに、あのゴロゴロという低音が眠気を誘います。女子供か年寄が、この季節になるとどこの家でもゴロゴロやっていたのを思い出します。作者は、亡き母を生活の音とともに偲んでいます。そこが、句の眼目でしょう。でも、こうした偲び方は、これからどんどん薄れていくのでしょうね。第一、電子レンジのチンでは情緒もへったくれもあったものではありませんし……。平井照敏編『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


June 1062000

 時の日の頬杖をつく男の子

                           わたなべじゅんこ

日は「時の記念日」。長いので、俳句では「時の日」とつづめて詠まれることが多い。大正九年からおこなわれているというから、そんじょそこらの何々デーとは時の厚みが違う。由来は、天智天皇の十年(661)にはじめて漏刻(水時計)が使用されたことに発する。したがって、厳密に言えば「『時計』記念日」だろう。常日ごろは活発な男の子が、どうしたわけか頬杖などついている。何か、思案にくれている。男の子の周辺だけが、時の止まったような雰囲気だ。どうしちゃったの。そんな男の子を見つめる、いかにも女性らしい暖かなまなざしで詠まれている。漫画のチャーリー・ブラウンの頬杖はつとに有名だが、彼の場合は、たいした思案をしているわけじゃない。そこが、なんとも可愛らしい。でも、漫画の主人公にかぎらず、頬杖の男の子の思案なんぞは、みな似たようなものではないだろうか。ときには、何も考えてないことだってある。単にボオッとしているだけのことが。私もその昔、教室で頬杖をついていると、よく「何カンガえてるの」と女の子に聞かれたものだ。だけど、男は絶対に聞いてこなかった。こちらの状態なんぞは、先刻お見通しだからである。『鳥になる』(2000)所収。(清水哲男)


June 1162000

 走り梅雨ちりめんじゃこがはねまわる

                           坪内稔典

雨の兆し。そのただならぬ気配に、「ちりめんじゃこ」がはねまわっている。昔から鯰は地震を予知すると言われるが、「ちりめんじゃこ」も雨期を予知するのだろうか。予知して、こんな大騒をするのだろうか。そんなはずはない。そんなことはありっこない。このとき、ただならぬのは「ちりめんじゃこ」よりも作者の感覚のほうである。誰にでも、他人はともかくとして、なんとなくそんな気がするという場面はしばしばだ。独断的な感受という心の動きがある。詩歌の作者は、この独断に言葉を与え、なんとか独断を普遍化しようと試みる。平たく言えば、「ねえ、こんな感じがするじゃない」と説得を試みるのだ。その説得の方法が、俳句と短歌と自由詩と、はたまた小説とでは異なってくる。そのことから考えて、掲句の世界は俳句でしか語れないものだと思う。たとえば、詩の書き手である私は、この独断を句のように放置してはおけない。はねまわる「ちりめんじゃこ」の様態までを自然に書きたくなってしまう。書かないと、気がおさまらないのだ。したがって、こうした句をこそ「俳句の中の俳句」と言うべきではなかろうか。ふと、そう思った。なお「ちりめんじゃこ」は関西以西の呼称だろうか。東京あたりでは「しらすぼし」と言う人が多い。『猫の木』(1987)所収。(清水哲男)


June 1262000

 五月雨や大河を前に家二軒

                           与謝蕪村

家でもあった蕪村のの目が、よく生きている。絵そのものと言っても、差し支えないだろう。濁流に押し流されそうな小さな家は、一軒でも三軒でもなく、二軒でないと視覚的に座りが悪い。一軒ではあまりにも頼りなく、すぐにでも流されてしまいそうで、かえってリアリティに欠ける。濁流の激しさのみが強調されて、句が(絵が)拵え物のように見えるからだ。逆に三軒(あるいはそれ以上)だと、にぎやかすぎて流されそうな不安定感が薄れ、これまたリアリティを欠く。このことから、蕪村にはどうしても「二軒」でなければならなかった。考えてみれば、「二」は物のばらける最小単位だ。したがって、不安定。夫婦などの二人組は、「二」を盤石の「一」にする(つまり「不二」にしたい)願望に発しているので、ばらける確率も高いわけである。ついでに書いておけば、手紙の結語の「不一」。あれは、「一」ではないという意味で、「以上、いろいろ書きましたが、「一」のように盤石の中身ではありませんよ」と謙遜しているのである。これが一方で、「三」となると「鼎」のように安定するのだから面白い。ところで「大河」の読みだが、専門家は「たいが」と読むようだ。でも、この句をまず言葉として読む私は、「おおかわ」に固執したい。「たいが」だなんて、日本の河じゃないみたいだからだ。もっとも、蕪村自身は「たいが」派でしょうね。そのほうが、墨絵風な味がぐっと濃くなるので……。不一(笑)。(清水哲男)


June 1362000

 黒栄に水汲み入るゝ戸口かな

                           原 石鼎

栄(くろはえ)は、普通「黒南風」と表記する。梅雨の雨雲が垂れ込めて、暗く陰鬱な空模様のときに吹く湿った南風を言う。対して「白南風(しらはえ)」は、梅雨明け後の空の明るいときの南風だ。「白南風や化粧にもれし耳の蔭(日野草城)」。単独に「南風」とも用い、いずれも季節風を指している。さて、水道の普及していなかった時代の朝一番の仕事といえば、水汲みだ。庭の井戸や近所の清水などから大きなバケツいっぱいに汲んできて、飲料水や台所仕事などの水を確保する。子供のころ、そんな環境に暮らしていたので、私にはよくわかる句だ。どんなに天気が悪かろうとも、水汲みだけは欠かせない。生きていくためには、まず水が必要であることを、あのときに身にしみて知らされた。だから、汲んできた水は貴重で、一滴たりともこぼすまいと用心する。作者が「戸口」をクローズアップしているのは、そのためである。強風に抗して汲んできた水を、狭い戸口にぶつけないようにと、慎重に運び入れている場面だ。こうして無事に運び込んだ水は、大きな甕などに移して溜めておく。この甕に移し終えたときの充足感は、経験者にしかわからないだろうが、荒天下の水汲みほど充足感が深いのはもちろんである。『合本俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


June 1462000

 百合の花超然として低からず

                           高屋窓秋

て、窓秋晩年の一句をどう読めばよいのか。表層的な意味ならば、中学生にだって理解できる。凛乎とした百合の花讃歌だ。この百合の姿かたちに、誰も異存はないと思う。「低からず」とわざわざ述べているのは、丈の高低を問題にしているからではなく、「超然とし」た花のすがたを、なお鮮やかなイメージに補強するためである。普通に読むと「超然」に「低からず」は潜在的なイメージとして浮き上がってくるはずだが、窓秋は念には念を入れている。もっと言えば、下手くそな句になることがわかっていながらの、あえての念押しなのだ。なぜだろうかと、私は立ち止まってしまった。考えてみて、以下は私の暴論に等しいかもしれぬ結論である。すなわち、このときに窓秋は、もはや読者のイメージを喚起することに空しさを覚え、みずからが築いてきた喚起装置にも疑念を抱き、逆にそれらを封印する句を作ってみたかったのではあるまいか。誰が読んでも読み間違えのない句。言葉の通り以上でも以下でもない句。つまりは、表層的にしか読みようのない句。そんな句を作りたかった……。だからこその「念押し」だったのではないか。かつて「山鳩よみればまはりに雪がふる」と書き、天下を酔わせた俳人のこの文学的帰着は、個人的作法を越えた俳句全体の問題として、なお考えてみる必要がありそうだ。『花の悲歌』(1993)所収。(清水哲男)


June 1562000

 京の雨午前に止みぬ金魚鉢

                           川崎展宏

行者の句だ。言葉による絵はがきがあるとすれば、こういうものだろう。旅先ではことさらに鬱陶しく感じられる雨が、ようやく上った京の町でのスケッチ。葭簀(よしず)の掛けてある小さな店に金魚鉢が置かれているのを、ちらりと認めたというところか。雨上がりを喜ぶ心に、いかにも京都らしい風情が好もしく思えている。昨日掲載した高屋窓秋の作句態度とは異なり、川崎展宏のそれは一貫して、いわば風袋(ふうたい)を軽くする態度で書かれてきた。第一句集『葛の葉』の跋に曰く。「俳句は遊びだと思っている。余技という意味ではない。いってみれば、その他一切は余技である。遊びだから息苦しい作品はいけない。難しいことだ。巧拙は才能のいたすところ、もはやどうにもならぬものと観念するようになった」。このとき、作者は四十六歳。あくまでも、俳句が中心。その中心が「遊び」だというのだから、この態度もなかなかに辛いだろう。いつだったか、作者が俳句に目覚めた句として、芭蕉の「蛸壺やはかなき夢を夏の月」をあげた話を聞いたことがある。作者の「遊び」の意味が、少しはわかったような気がした。『葛の葉』(1971)所収。(清水哲男)


June 1662000

 六月の水辺にわれは水瓶座

                           文挟夫佐恵

の星座も「水瓶座」。嬉しくなってここに拾い上げてはみたものの、はて、なぜ「六月の水辺」なのか。肝心要のところが、よくわからない。六月は梅雨季ということもあり、たしかに水とは縁がある。が、句の情景は雨降りのそれではないだろう。むしろ、良い天気の感じだ。ならば、梅雨の晴れ間の清々しさを「水辺」に象徴させたのだろうか。陽光が煌めく水を見つめながら、ふと自分が水瓶座の生まれであったことを思い出した。そこで「水辺」に「水瓶」かと、その取り合わせにひとり微笑を浮かべている……。そんな思いを詠んだ句のような気がしてきたのだが、どんなものだろう。私の詩集に『水甕座の水』というのがあって、ときどき「どんな意味か」と聞かれる。聞かれると困って、いつも「うーん」と言ってきた。正直言って、なんとなくつけたタイトルなのだ(同名の詩編はない)。この詩集について、飯島耕一さんに「水浸しの詩集だ」と評されたことがあったけど、なるほど、言われてみるとあちこちに「水」が出てくる。企んだつもりはないのだが、結果的に「水浸し」になっていたのだった。もしかすると句の作者にも格別な作意はなく、自分のなかで、なんとなく「六月の水辺」との折り合いがついているのかもしれない。星座占いに関心はないが、「水瓶座」の生まれはなんとなく「水」に引き寄せられるのだろうか。他の星座生まれの方の見解を拝聴したい。「俳句研究年鑑」('95年版)所載。(清水哲男)


June 1762000

 虚を衝かれしは首すじの日焼かな

                           飯島晴子

語は「日焼」。誰かに指摘されたのか、あるいは鏡のなかで発見したのか。女性の場合、顔や手足の強い日焼けはケアが大変だ(ろう)。だから、いつも格別に用心しているわけだが、「首すじ」の日焼けとは、たしかに「虚を衝(つ)かれ」た感じになるだろう。「首すじ」も露出しているのだから、理屈では日焼けして当然なのだが、気分的にはギョッとする。顔や腕などに比べると、日頃はほとんど意識の埒外にあるからだ。このとき「虚を衝かれ」たのは作者だが、それを句にしたことで、今度は作者が読者の虚を衝く番となった。転んでもタダでは起きぬしたたかさ。と言っても、失礼にはあたるまい。とにかく、飯島さんは読者を「あっ」と驚かす名人だった。何度読んでも、私などは「あっ」の連続で、たっぷりと楽しませていただいてきた。訃報に接したときに、すぐに思い出したのは、飯島さんの競馬好きのことだ。詳細は省略するが、飯島さんからいただいた最初のお便りには、俳句とは直接何の関係もない「競馬」のことが書かれていて、「私の競馬好きを知る人は、ほとんどいませんが……」と、イタズラっぽく結んであった。読んだ私は、もちろん「あっ」と虚を衝かれた。『儚々』(1996)所収。(清水哲男)


June 1862000

 老境や空ほたる籠朱房垂れ

                           能村登四郎

の「ほたる籠」は、とてつもなく大きく感じられる。人間の乗る籠くらいには思える。「空(から)」が空(そら・くう)を思わせ、「朱房」が手に重い感覚を喚起するからだ。もとより、作者が見ているのは、細くて赤い紐のついた普通の小さな蛍籠だろう。句のどこにも大きく見えるとは書いてないけれど、それが大きく感じられるのは「老境」との響きあいによるものだ。老境にはいまだしの私が言うのも生意気だが、年齢を重ねるに連れて、たしかに事物は大きく鮮明に見えてくるのだと思う。事物の大小は相対的に感じるわけで、視線を活発に動かす若年時には、大小の区別は社会常識の範囲内に納まっている。ところが、身体的にも精神的にも目配りが不活発になってくる(活発に動かす必要もなくなる)と、相対化が徹底しないので、突然のように心はある一つのものを拡大してとらえるようになる。単なる細くて赤い紐が、大きな朱房に見えたりする。そのように目に見えるというよりも、そのように見たくなるというべきか。生理的な衰えとともに、人は事物を相対化せず、個としていつくしむ「レンズ」を育てていくようである。「老境」もまた、おもしろし。一抹の寂しさを含んだうえで、作者はそのようなことを言いたかった……。『菊塵』(1988)所収。(清水哲男)


June 1962000

 ナイターに見る夜の土不思議な土

                           山口誓子

そらく、初めてのナイター見物での感想だろう。煌々たるライトに照らし出された球場は、そのままで別世界だ。人工美の一つの極。私が初めて見たときは、玩具の野球ゲーム盤みたいだと思った。打ったり投げたりしている選手たちも、みなロボット人形のように見えた。「大洋ホエールズ」に贔屓の黒木基康外野手がいたころだから、60年代も半ばの後楽園球場だ。ナイターの現場にいるというだけで興奮していて、ゲームの推移など何一つ覚えてはいない。あのとき、私は何を見ていたのだろうか。掲句を知ったときに、さすがに研鑽を積んだ俳人の目は凄いなと感じた。人工芝などない時代だから、芝も土も自然のものである。何の変哲もない自然が、しかしナイターの光りに照らし出されている様子は、たしかに「不思議」と言うしかないような色彩と質感を湛えている。自然の「土」が、これまでに誰も見たことがない姿で眼前に展開しているのだ。試合中に、誓子は何度もその「不思議」を見つめ直したにちがいない。人工的に演出されたワンダーランドのなかにいて、すっと「土」という自然に着目する才質は、俳人としての修練を経てきた者を強く感じさせる。ちなみに、日本の初ナイターは1948年(昭和二十三年八月十七日)の巨人中日戦(横浜ゲーリッグ球場)だった。田舎の野球小僧だった私は、雑誌「野球少年」のカラー口絵でそれを知った。平井照敏『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


June 2062000

 羅や口つけ煙草焔を押して

                           北野平八

(うすもの)は、薄くすけて、いかにも涼しげな夏の着物。多くは、女性が着る。羅の句では、松本たかしの「羅をゆるやかに着て崩れざる」が有名だ。作者は平凡な日常シーンのスケッチを得意としたが、この句もうまいものである。見知らぬ女性に煙草の火を貸している場面。「どうぞ」と自分の吸っている煙草を差し出すと、相手は焔(ほ)を押すようにして火をつける。そのときに羅を着た身体が接近することになるわけで、「口つけ煙草」で押される手先の微妙な感触とともに、不意に異性の淡い肉感が作者を走り抜けたというところだろう。百円ライターという無粋なものが普及する以前には、このような煙草火の貸し借りはごく普通のことだった。駅のホームなどでもよく見られたし、私にも何度も経験がある。煙草好き同士の暗黙の仁義みたいなものがあって、誰も断る人はいなかった。もっとも、あれは道を尋ねるときと同じで、あまり恐そうな人には頼まないのだけど(笑)。百円ライターのせいもあるが、嫌煙権が猛威をふるっている現在では、こうしたやりとりも消えてしまった。句が作られたのは1986年の夏、作者はこの年の十一月に六十七歳で亡くなることになる。桂信子門。『北野平八句集』(1987)所収。(清水哲男)


June 2162000

 紫陽花に吾が下り立てば部屋は空ら

                           波多野爽波

っはっは、そりゃそうだ。そういう理屈だ。……と読んで、さて、このあまりにも当たり前な世界のどこに魅力を感じるのかと、さっきから句を反芻している。咲いた紫陽花をよく見ようと、作者は庭に下り立った。私だったら、意識はたぶんそのまま紫陽花に集中するだろうが、爽波は違う。集中する前に、ふっと後ろが気になっている。すかさず、その気持ちを詠んだというわけだ。梅雨の晴れ間だろう。明るい庭から部屋を振り向いたとしたら、そこは暗くて湿っぽい「空ら」の空間だ。この対比を考えると、自分がこの世からいなくなったときの「空ら」の部屋そのものとして浮き上がってくるようである。庭に下りても、この世からおさらばしても、部屋はそのがらんどう性において、まったく変わりはない。掲句はそのことを強調しているわけでもないし、暗示すらしていないのだが、しかし、この「空ら」にはそのあたりまで読者を連れていく力がある。力の源にあるのは、結局のところ「俳句という様式」だろうと思う。俳句として読むから、読者は「はっはっは」ではすまなくなるのだ。『鋪道の花』(1956)所収。(清水哲男)


June 2262000

 毛虫の季節エレベーターに同性ばかり

                           岡本 眸

くわからないが、何となく気になる句がある。これも、その一つ。こうした偶然は、女性客の多いデパートのエレベーターなどで、結構起きているのだろう。「同性ばかり」とこだわっているからには、二、三人の同性客ではない。満員か、それに近い状態なのだ。それでなくとも、満員のエレベーターのなかは気詰まりなのに、同性ばかりだから無遠慮に身体や荷物を押し付けてくる女もいたにちがいない。なかには人の頭を飛び越して、傍若無人の大声でロクでもない会話をかわしている……。そこでふと、作者はいまが「毛虫の季節」であることを連想したということだろうか。着飾ってはいるとしても、蝶の優雅さにはほど遠い女たち。毛虫どもめと、一瞬、焼き殺したくなったかもしれない。おぞましや。句の字余りが、怒りと鬱陶しさを増幅している。こんなふうに読んでみたが、ここはやはり作者と同性の読者の「観賞」に待つべきだろう。エレベーターで思い出した。昭和の初期に出た「マナー読本」の類に「昇降機での礼儀心得」という項目があり、第一項は次のようであった。「昇降機に乗ったら、必ずドアのほうに向き直って直立すべし」。向き直らない人もいたようである。『朝』(1961)所収。(清水哲男)


June 2362000

 早介が虚空をつかむ螢かな

                           湯本希杖

介は、おそらく小さな孫の名前だろう。蛍をつかまえようとして、「虚空」をつかんでしまった。孫の失敗も、また楽し。「ほれ、ほら」と声をかけながら、早介を見守る作者の慈顔が目に見えるようだ。希杖は、宝暦から天保期にかけて信州に住んだ一茶の弟子。湯田中温泉近くに「如意の湯」と名づけた別荘を建て、その子其秋とともに師を手厚く遇したという。一茶のいわばパトロンの一人で、芭蕉などもそうであったように、こうした人たちの生活支援があったからこそ、一茶らの文名も現代にまで伝えられることになった。そんな知識から句を読み返してみると、なるほど一茶への傾倒ぶりがよく現れている。そっくりと言っても、過言ではない。眼目は「虚空」にある。と言っても、もちろん句の「虚空」には近代的な味付けなどないわけで、単に物理的な「虚しい(何もない)空間」という意味だ。いまとは大違いで、昔の夜は真の闇。鼻をつままれても相手が誰だかわからないほどだったので、蛍の光りは見えても、相対的な距離感がとれないから、飛ぶ位置の見当をつけるのは大人でも難しい。したがって、可愛い早介の失敗にも笑っていられる。べつに、早介がのろまというわけじゃないのだ。これが江戸期の地方に暮らした庶民の、ごく普通の「蛍狩」の情景だろう。『一茶十哲句集』(1942)所収。(清水哲男)


June 2462000

 篠の子と万年筆を並べ置く

                           岡田史乃

語は「篠(すず)の子」。篠竹(しのたけ)の筍のことだ。小指ほどの細さで、風味がよいことから山菜として親しまれている。「篠の子の果して出でし膳の上」(細川加賀)。さて、俳句ではよく「取り合わせの妙」ということを言う。短い詩型だから、読者の思いも及ばぬ物や事象を取り合わせて並べると、その意外な組み合わせが独特の世界を築き上げる。なかにはウナギと梅干しなどのように「食いあわせ」みたいな句もある(笑)が、俳句の重要な作法の一つだ。掲句も、一見すると「取り合わせ」句に思えるかもしれないけれど、そうではないところが面白い。「篠の子」と「万年筆」を取り合わせているのは句の外なのであって、句の内側はまったくの写生句である。客観描写だ。俳句を読み慣れている読者なら、「あっ、やられた」と微苦笑するにちがいない。細くてシックな女性用の万年筆の横に、同じくらいの細さの篠の子を「並べ置く」。その行為自体にさしたる意味はないにしても、並べてみると万年筆も篠の子も、そして机上の雰囲気もが、いつもと違って見えてくるだろう。つまり、作者は日常の世界で具体的に俳句を実践し、それをレポートしたのが掲句ということになる。ちなみに、作者は俳誌「篠(すず)」の主宰者である。「史乃」を「篠」に読み替え、もう一度ひねったわけだ。『浮いてこい』(1983)所収。(清水哲男)


June 2562000

 さし招く團扇の情にしたがひぬ

                           後藤夜半

人数の会合。宴席だろうか。とくに座る場所が定められていない場合、部屋に入ったときにどこに座ろうかと、一瞬戸惑ってしまう。見知らぬ人が多いときには、なおさらだ。ぐるりと見渡していると、向こうの方から「さし招く」団扇に気がついた。顔見知りではあるが、そんなに親しい人でもない。でも、その人のさし招きように何かとても暖かいものを感じたので、その「情」にしたがったというのである。一般的に「さし招く」など他人に合図を送る場合、手に持った物を使っての合図は失礼とされる。よほど親しい間柄であれば、箸を振り回して呼んだりもするが、これは例外。かつてボールペンだかシャープペンシルだかで記者を指名した首相もいたけれど、当人は格好よいつもりでも、この国のマナーとしては最低の部類に属する。したがって、掲句のシチュエーションを四角四面にとらえれば、やはり失礼なことには違いない。しかし「さし招く團扇」の様子に、そんなことは別と言わんばかりの「情」がこもっていたので、気持ち良くしたがえた。だから、あえて作者はこういう句を詠んだというわけだ。このとき、夜半は七十代か。本物の「情」の味が、身にしみてわかってくる年齢だろう。その点で、私などはまだまだほんの小僧でしかない。蛇足ながら、最近は、とんとこの「情」という言葉を聞かなくなった。「情」で「IT革命」はできないからね。『彩色』(1968)所収。(清水哲男)


June 2662000

 蟻が蟻負いゆく大歓声の中

                           辻本冷湖

が蝶の羽を引いていく。その様子を見て「ああ、ヨットのようだ」と書いた詩人がいる。ほほ笑ましいスケッチではあるにしても、掲句に比べれば、かなり凡庸な発想と言わざるを得ない。同じような庭の片隅などでのスケッチにしても、句は、仲間の蟻(傷ついているのか、もはや息絶えているのか)を懸命に引いていく姿を、実際には起きていない「大歓声」を心中に起こすことで活写してみせた。「大歓声」の分だけ、蟻の世界に食い込んでいる。蟻の生命とともに、作者も生きている。「ヨット」詩人にとっては、蟻や蝶の生命なんかどうでもよいわけだが、作者にはどうでもよくはないのである。実際、この句を読むと「がんばれよ」と、思わずも手に力が入ってしまう。ちっぽけな庭の片隅が、オリンピックの競技場くらいまでに拡大される。そういえば私にも、暑い庭先にしゃがみこんで、いつまでも蟻たちの活動ぶりを眺めていた頃があったっけ。一匹ずつつまみあげては方向転換をさせてみたり、彼らの巣にバケツで水をぶち込んでみたりと、相当なわるさもしたけれど……。掲句のおかげで、ひさしぶりに子供だった頃の夏を思い出した。玄関先に咲いていた、砂埃にまみれた松葉牡丹の様子なんかもね。『現代俳句年鑑2000』(現代俳句協会)所載。(清水哲男)


June 2762000

 夢に見し人遂に来ず六月尽く

                           阿部みどり女

句集に収められているから、晩年の病床での句だろうか。夢にまで見た人が、遂に現れないまま、六月が尽(つ)きてしまった。季語「六月尽(ろくがつじん)」の必然性は、六月に詠まれたというばかりではなく、会えないままに一年の半分が過ぎてしまったという感慨にある。作者はこのときに九十代だから、夢に現われたこの人は現実に生きてある人ではないように思える。少なくとも、長年音信不通になったままの人、連絡のとりようもない人だ。もとより作者は会えるはずもないことを知っているわけで、そのあたりに老いの悲しみが痛切に感じられる。将来の私にも、こういうことが起きるのだろうか。読者は、句の前でしばし沈思するだろう。同じ句集に「訪づれに心はずみぬ三味線草」があり、読みあわせるとなおさらに哀切感に誘われる。「三味線草」は「薺(なずな)」、俗に「ぺんぺん草」と言う。そして掲句は、こうした作者についての情報を何も知らなくとも、十分に読むに耐える句だと思う。「夢に見し人」への思いは、私たちに共通するものだからである。虚子門。『石蕗』(1982)所収。(清水哲男)


June 2862000

 花合歓や凪とは横に走る瑠璃

                           中村草田男

歓(ねむ)の花を透かして、凪(な)いだ瑠璃(るり)色の海を見ている。合歓が咲いているのだから、夕景だ。刷毛ではいたような繊細な合歓の花(この部分は雄しべ)と力強く「横に走る」海との対比の妙。色彩感覚も素晴らしい。海辺で咲く合歓を見たことはないが、本当に見えるような気がする。田舎にいたころ、学校に通う道の川畔に一本だけ合歓の木があって、どちらかというと、小さな葉っぱのほうが好きだった。花よりも、もっと繊細な感じがする。暗くなると眠る神秘性にも魅かれていた。眠るのは、葉の付け根の細胞の水分が少なくなるからだそうだ。ところで合歓というと、芭蕉の「象潟や雨に西施がねぶの花」が名高い。夜に咲き昼つぽむ花に、芭蕉は非運の美女を象徴させたわけだ。しかし、この句があまりにも有名であるがために、後に合歓を詠む俳人は苦労することになった。それこそ草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」が、同じ季題で詠むときの邪魔(笑)になるように……。合歓句に女性を登場させたり連想を持ち込むと、もうそれだけで芭蕉の勝ちになる。ましてや「象潟(きさがた)」なる地名を詠むなどはとんでもない。だから、懸命にそこを避けて通るか、あるいは開き直って「象潟やけふの雨降る合歓の花」(細川加賀)とやっちまうか。そこで遂に業を煮やした安住敦は、怒りを込めて一句ひねった。すなわち「合歓咲いてゐしとのみ他は想起せず」と。三百年前の男への面当てである。『中村草田男全集』(みすず書房)所収。(清水哲男)


June 2962000

 学成らずもんじゃ焼いてる梅雨の路地

                           小沢信男

書に「月島西仲通り」とある。東京の下町だ。「もんじゃ(焼き)」は近年マスコミで紹介され、東京土産としてセットも売られているので、全国的に知られるようになってきた。一応『広辞苑』から定義を引いておくと、「小麦粉をゆるく溶き、具をあまり入れずに、鉄板で焼きながら食べる料理。焼く時に鉄板にたねで字を書いて楽しんだことで『文字焼き』の転という」。句意は明瞭にして、句感はひどく切ない。同じような食べ物でも、「お好み焼き」だとこうはいかないだろう。座が、はなやぎ過ぎるからだ。ところで、当ページにときどき出てくる「余白句会」は、実はこの句に発している。作者と辻征夫などが詩誌「詩学」投稿欄の選者だった折り、雑談で俳句の話になり、そのときに辻が好きな句としてあげたのが、この句だった。彼は種村季弘が句を激賞していた文章で覚えていたのだが、作者名は失念してしまっていた。で、「作者は忘れちゃったんですけど……」と、作者本人を前に滔々と激賞したというわけだ。このときの作者の困ったような顔を想像すると、可笑しい。それがきっかけとなって楽しい句会が誕生したのだが、こういう場合はいったい誰に感謝すればよいのだろうか(笑)。井川博年の観察によれば、掲句は学者など「学成った人」に評判がよいそうだ。わかるような気がする。なお掲句については、既にその井川君の観賞が掲載されています(1997年6月3日付)。『んの字 小沢信男全句集』(2000)。(清水哲男)


June 3062000

 三島の宿雨に鰻をやく匂ひ

                           杉本 寛

のまんまの挨拶句だが、まずは雨降りというシチュエーションが利いている。湿った空気のなか、どこからか鰻をやく匂いが低くかすかに漂ってくる。晴れていれば暑苦しいばかりの匂いも、雨に溶けているかのように親しく匂ってくるのだ。旅情満点。酒飲みなら、そこらへんの店で必ず一杯やりたくなるだろう。「やく」と平仮名にしたところも、うなずける。「さあ、いらっしゃい」と景気付けの店先では「焼く」だけれど、雨の情趣を出すには「やく」でなければならない。静岡県の三島だから、高級な鰻のやわらかさにも連想が行く。よい映画批評が私たちを映画館に連れていくように、掲句は雨の三島への旅情を誘う。私にとって三島は未知の土地だが、行く機会があったら、きっとこの句を思い出すだろう。近ごろの鰻は養殖が増え、すっかり季節感がなくなってしまったが、元来は夏のものだ。少年時代の田舎の川にも鰻がいて、若い衆の見様見まねで鰻掻(うなぎかき)で取ろうとはしたものの、とうてい子供の手におえるような相手ではなかった。ちゃんとした鰻を食べたのは、二十代に入ってからである。さて、今日で六月もおしまい。間もなく、鰻受難の季節がやってくる。『杉本寛集』(1988・俳人協会刋)所収。(清水哲男)




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