机の上に一台のパソコンと一冊の野球ブックと。後は何もない。そんな日曜日が、私に来るだろうか。




2000ソスN6ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1162000

 走り梅雨ちりめんじゃこがはねまわる

                           坪内稔典

雨の兆し。そのただならぬ気配に、「ちりめんじゃこ」がはねまわっている。昔から鯰は地震を予知すると言われるが、「ちりめんじゃこ」も雨期を予知するのだろうか。予知して、こんな大騒をするのだろうか。そんなはずはない。そんなことはありっこない。このとき、ただならぬのは「ちりめんじゃこ」よりも作者の感覚のほうである。誰にでも、他人はともかくとして、なんとなくそんな気がするという場面はしばしばだ。独断的な感受という心の動きがある。詩歌の作者は、この独断に言葉を与え、なんとか独断を普遍化しようと試みる。平たく言えば、「ねえ、こんな感じがするじゃない」と説得を試みるのだ。その説得の方法が、俳句と短歌と自由詩と、はたまた小説とでは異なってくる。そのことから考えて、掲句の世界は俳句でしか語れないものだと思う。たとえば、詩の書き手である私は、この独断を句のように放置してはおけない。はねまわる「ちりめんじゃこ」の様態までを自然に書きたくなってしまう。書かないと、気がおさまらないのだ。したがって、こうした句をこそ「俳句の中の俳句」と言うべきではなかろうか。ふと、そう思った。なお「ちりめんじゃこ」は関西以西の呼称だろうか。東京あたりでは「しらすぼし」と言う人が多い。『猫の木』(1987)所収。(清水哲男)


June 1062000

 時の日の頬杖をつく男の子

                           わたなべじゅんこ

日は「時の記念日」。長いので、俳句では「時の日」とつづめて詠まれることが多い。大正九年からおこなわれているというから、そんじょそこらの何々デーとは時の厚みが違う。由来は、天智天皇の十年(661)にはじめて漏刻(水時計)が使用されたことに発する。したがって、厳密に言えば「『時計』記念日」だろう。常日ごろは活発な男の子が、どうしたわけか頬杖などついている。何か、思案にくれている。男の子の周辺だけが、時の止まったような雰囲気だ。どうしちゃったの。そんな男の子を見つめる、いかにも女性らしい暖かなまなざしで詠まれている。漫画のチャーリー・ブラウンの頬杖はつとに有名だが、彼の場合は、たいした思案をしているわけじゃない。そこが、なんとも可愛らしい。でも、漫画の主人公にかぎらず、頬杖の男の子の思案なんぞは、みな似たようなものではないだろうか。ときには、何も考えてないことだってある。単にボオッとしているだけのことが。私もその昔、教室で頬杖をついていると、よく「何カンガえてるの」と女の子に聞かれたものだ。だけど、男は絶対に聞いてこなかった。こちらの状態なんぞは、先刻お見通しだからである。『鳥になる』(2000)所収。(清水哲男)


June 0962000

 亡き母の石臼の音麦こがし

                           石田波郷

かけなくなりましたね、麦こがし。新麦を炒って石臼などで引き、粉にしただけの素朴な食べ物。砂糖を入れてそのままで食べたり、湯や冷水にといて食べたりします。東京では「麦こがし」、関西では「はったい」と言うようですが、我が故郷の山口では「はったいこ(粉)」と呼んでいました。地方によっては「麦焦(むぎいり)」「麦香煎(むぎこうせん)」とも。「はったい」命名の由来には諸説あり、「初田饗(はつたあえ)」から来たといううがった見方もあるとのこと。ところで私にもイヤというほどの経験がありますが、麦や豆を石臼で引く仕事は、単調で退屈でした。それに、あのゴロゴロという低音が眠気を誘います。女子供か年寄が、この季節になるとどこの家でもゴロゴロやっていたのを思い出します。作者は、亡き母を生活の音とともに偲んでいます。そこが、句の眼目でしょう。でも、こうした偲び方は、これからどんどん薄れていくのでしょうね。第一、電子レンジのチンでは情緒もへったくれもあったものではありませんし……。平井照敏編『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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