白秋の「あめふり」が教科書から消えて久しい。母親におむかえに行くヒマはないし、蛇の目もない。




2000ソスN6ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1262000

 五月雨や大河を前に家二軒

                           与謝蕪村

家でもあった蕪村のの目が、よく生きている。絵そのものと言っても、差し支えないだろう。濁流に押し流されそうな小さな家は、一軒でも三軒でもなく、二軒でないと視覚的に座りが悪い。一軒ではあまりにも頼りなく、すぐにでも流されてしまいそうで、かえってリアリティに欠ける。濁流の激しさのみが強調されて、句が(絵が)拵え物のように見えるからだ。逆に三軒(あるいはそれ以上)だと、にぎやかすぎて流されそうな不安定感が薄れ、これまたリアリティを欠く。このことから、蕪村にはどうしても「二軒」でなければならなかった。考えてみれば、「二」は物のばらける最小単位だ。したがって、不安定。夫婦などの二人組は、「二」を盤石の「一」にする(つまり「不二」にしたい)願望に発しているので、ばらける確率も高いわけである。ついでに書いておけば、手紙の結語の「不一」。あれは、「一」ではないという意味で、「以上、いろいろ書きましたが、「一」のように盤石の中身ではありませんよ」と謙遜しているのである。これが一方で、「三」となると「鼎」のように安定するのだから面白い。ところで「大河」の読みだが、専門家は「たいが」と読むようだ。でも、この句をまず言葉として読む私は、「おおかわ」に固執したい。「たいが」だなんて、日本の河じゃないみたいだからだ。もっとも、蕪村自身は「たいが」派でしょうね。そのほうが、墨絵風な味がぐっと濃くなるので……。不一(笑)。(清水哲男)


June 1162000

 走り梅雨ちりめんじゃこがはねまわる

                           坪内稔典

雨の兆し。そのただならぬ気配に、「ちりめんじゃこ」がはねまわっている。昔から鯰は地震を予知すると言われるが、「ちりめんじゃこ」も雨期を予知するのだろうか。予知して、こんな大騒をするのだろうか。そんなはずはない。そんなことはありっこない。このとき、ただならぬのは「ちりめんじゃこ」よりも作者の感覚のほうである。誰にでも、他人はともかくとして、なんとなくそんな気がするという場面はしばしばだ。独断的な感受という心の動きがある。詩歌の作者は、この独断に言葉を与え、なんとか独断を普遍化しようと試みる。平たく言えば、「ねえ、こんな感じがするじゃない」と説得を試みるのだ。その説得の方法が、俳句と短歌と自由詩と、はたまた小説とでは異なってくる。そのことから考えて、掲句の世界は俳句でしか語れないものだと思う。たとえば、詩の書き手である私は、この独断を句のように放置してはおけない。はねまわる「ちりめんじゃこ」の様態までを自然に書きたくなってしまう。書かないと、気がおさまらないのだ。したがって、こうした句をこそ「俳句の中の俳句」と言うべきではなかろうか。ふと、そう思った。なお「ちりめんじゃこ」は関西以西の呼称だろうか。東京あたりでは「しらすぼし」と言う人が多い。『猫の木』(1987)所収。(清水哲男)


June 1062000

 時の日の頬杖をつく男の子

                           わたなべじゅんこ

日は「時の記念日」。長いので、俳句では「時の日」とつづめて詠まれることが多い。大正九年からおこなわれているというから、そんじょそこらの何々デーとは時の厚みが違う。由来は、天智天皇の十年(661)にはじめて漏刻(水時計)が使用されたことに発する。したがって、厳密に言えば「『時計』記念日」だろう。常日ごろは活発な男の子が、どうしたわけか頬杖などついている。何か、思案にくれている。男の子の周辺だけが、時の止まったような雰囲気だ。どうしちゃったの。そんな男の子を見つめる、いかにも女性らしい暖かなまなざしで詠まれている。漫画のチャーリー・ブラウンの頬杖はつとに有名だが、彼の場合は、たいした思案をしているわけじゃない。そこが、なんとも可愛らしい。でも、漫画の主人公にかぎらず、頬杖の男の子の思案なんぞは、みな似たようなものではないだろうか。ときには、何も考えてないことだってある。単にボオッとしているだけのことが。私もその昔、教室で頬杖をついていると、よく「何カンガえてるの」と女の子に聞かれたものだ。だけど、男は絶対に聞いてこなかった。こちらの状態なんぞは、先刻お見通しだからである。『鳥になる』(2000)所収。(清水哲男)




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