句集をお寄せ頂いている方々。お礼状も差し上げられず心苦しいかぎりです。ありがとうございます。




2000ソスN6ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1762000

 虚を衝かれしは首すじの日焼かな

                           飯島晴子

語は「日焼」。誰かに指摘されたのか、あるいは鏡のなかで発見したのか。女性の場合、顔や手足の強い日焼けはケアが大変だ(ろう)。だから、いつも格別に用心しているわけだが、「首すじ」の日焼けとは、たしかに「虚を衝(つ)かれ」た感じになるだろう。「首すじ」も露出しているのだから、理屈では日焼けして当然なのだが、気分的にはギョッとする。顔や腕などに比べると、日頃はほとんど意識の埒外にあるからだ。このとき「虚を衝かれ」たのは作者だが、それを句にしたことで、今度は作者が読者の虚を衝く番となった。転んでもタダでは起きぬしたたかさ。と言っても、失礼にはあたるまい。とにかく、飯島さんは読者を「あっ」と驚かす名人だった。何度読んでも、私などは「あっ」の連続で、たっぷりと楽しませていただいてきた。訃報に接したときに、すぐに思い出したのは、飯島さんの競馬好きのことだ。詳細は省略するが、飯島さんからいただいた最初のお便りには、俳句とは直接何の関係もない「競馬」のことが書かれていて、「私の競馬好きを知る人は、ほとんどいませんが……」と、イタズラっぽく結んであった。読んだ私は、もちろん「あっ」と虚を衝かれた。『儚々』(1996)所収。(清水哲男)


June 1662000

 六月の水辺にわれは水瓶座

                           文挟夫佐恵

の星座も「水瓶座」。嬉しくなってここに拾い上げてはみたものの、はて、なぜ「六月の水辺」なのか。肝心要のところが、よくわからない。六月は梅雨季ということもあり、たしかに水とは縁がある。が、句の情景は雨降りのそれではないだろう。むしろ、良い天気の感じだ。ならば、梅雨の晴れ間の清々しさを「水辺」に象徴させたのだろうか。陽光が煌めく水を見つめながら、ふと自分が水瓶座の生まれであったことを思い出した。そこで「水辺」に「水瓶」かと、その取り合わせにひとり微笑を浮かべている……。そんな思いを詠んだ句のような気がしてきたのだが、どんなものだろう。私の詩集に『水甕座の水』というのがあって、ときどき「どんな意味か」と聞かれる。聞かれると困って、いつも「うーん」と言ってきた。正直言って、なんとなくつけたタイトルなのだ(同名の詩編はない)。この詩集について、飯島耕一さんに「水浸しの詩集だ」と評されたことがあったけど、なるほど、言われてみるとあちこちに「水」が出てくる。企んだつもりはないのだが、結果的に「水浸し」になっていたのだった。もしかすると句の作者にも格別な作意はなく、自分のなかで、なんとなく「六月の水辺」との折り合いがついているのかもしれない。星座占いに関心はないが、「水瓶座」の生まれはなんとなく「水」に引き寄せられるのだろうか。他の星座生まれの方の見解を拝聴したい。「俳句研究年鑑」('95年版)所載。(清水哲男)


June 1562000

 京の雨午前に止みぬ金魚鉢

                           川崎展宏

行者の句だ。言葉による絵はがきがあるとすれば、こういうものだろう。旅先ではことさらに鬱陶しく感じられる雨が、ようやく上った京の町でのスケッチ。葭簀(よしず)の掛けてある小さな店に金魚鉢が置かれているのを、ちらりと認めたというところか。雨上がりを喜ぶ心に、いかにも京都らしい風情が好もしく思えている。昨日掲載した高屋窓秋の作句態度とは異なり、川崎展宏のそれは一貫して、いわば風袋(ふうたい)を軽くする態度で書かれてきた。第一句集『葛の葉』の跋に曰く。「俳句は遊びだと思っている。余技という意味ではない。いってみれば、その他一切は余技である。遊びだから息苦しい作品はいけない。難しいことだ。巧拙は才能のいたすところ、もはやどうにもならぬものと観念するようになった」。このとき、作者は四十六歳。あくまでも、俳句が中心。その中心が「遊び」だというのだから、この態度もなかなかに辛いだろう。いつだったか、作者が俳句に目覚めた句として、芭蕉の「蛸壺やはかなき夢を夏の月」をあげた話を聞いたことがある。作者の「遊び」の意味が、少しはわかったような気がした。『葛の葉』(1971)所収。(清水哲男)




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