朝夕は、仕事場の窓を開けて書く。味噌汁などの匂いが流れて来、移動八百屋や豆腐屋の呼び声も。




2000ソスN6ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2162000

 紫陽花に吾が下り立てば部屋は空ら

                           波多野爽波

っはっは、そりゃそうだ。そういう理屈だ。……と読んで、さて、このあまりにも当たり前な世界のどこに魅力を感じるのかと、さっきから句を反芻している。咲いた紫陽花をよく見ようと、作者は庭に下り立った。私だったら、意識はたぶんそのまま紫陽花に集中するだろうが、爽波は違う。集中する前に、ふっと後ろが気になっている。すかさず、その気持ちを詠んだというわけだ。梅雨の晴れ間だろう。明るい庭から部屋を振り向いたとしたら、そこは暗くて湿っぽい「空ら」の空間だ。この対比を考えると、自分がこの世からいなくなったときの「空ら」の部屋そのものとして浮き上がってくるようである。庭に下りても、この世からおさらばしても、部屋はそのがらんどう性において、まったく変わりはない。掲句はそのことを強調しているわけでもないし、暗示すらしていないのだが、しかし、この「空ら」にはそのあたりまで読者を連れていく力がある。力の源にあるのは、結局のところ「俳句という様式」だろうと思う。俳句として読むから、読者は「はっはっは」ではすまなくなるのだ。『鋪道の花』(1956)所収。(清水哲男)


June 2062000

 羅や口つけ煙草焔を押して

                           北野平八

(うすもの)は、薄くすけて、いかにも涼しげな夏の着物。多くは、女性が着る。羅の句では、松本たかしの「羅をゆるやかに着て崩れざる」が有名だ。作者は平凡な日常シーンのスケッチを得意としたが、この句もうまいものである。見知らぬ女性に煙草の火を貸している場面。「どうぞ」と自分の吸っている煙草を差し出すと、相手は焔(ほ)を押すようにして火をつける。そのときに羅を着た身体が接近することになるわけで、「口つけ煙草」で押される手先の微妙な感触とともに、不意に異性の淡い肉感が作者を走り抜けたというところだろう。百円ライターという無粋なものが普及する以前には、このような煙草火の貸し借りはごく普通のことだった。駅のホームなどでもよく見られたし、私にも何度も経験がある。煙草好き同士の暗黙の仁義みたいなものがあって、誰も断る人はいなかった。もっとも、あれは道を尋ねるときと同じで、あまり恐そうな人には頼まないのだけど(笑)。百円ライターのせいもあるが、嫌煙権が猛威をふるっている現在では、こうしたやりとりも消えてしまった。句が作られたのは1986年の夏、作者はこの年の十一月に六十七歳で亡くなることになる。桂信子門。『北野平八句集』(1987)所収。(清水哲男)


June 1962000

 ナイターに見る夜の土不思議な土

                           山口誓子

そらく、初めてのナイター見物での感想だろう。煌々たるライトに照らし出された球場は、そのままで別世界だ。人工美の一つの極。私が初めて見たときは、玩具の野球ゲーム盤みたいだと思った。打ったり投げたりしている選手たちも、みなロボット人形のように見えた。「大洋ホエールズ」に贔屓の黒木基康外野手がいたころだから、60年代も半ばの後楽園球場だ。ナイターの現場にいるというだけで興奮していて、ゲームの推移など何一つ覚えてはいない。あのとき、私は何を見ていたのだろうか。掲句を知ったときに、さすがに研鑽を積んだ俳人の目は凄いなと感じた。人工芝などない時代だから、芝も土も自然のものである。何の変哲もない自然が、しかしナイターの光りに照らし出されている様子は、たしかに「不思議」と言うしかないような色彩と質感を湛えている。自然の「土」が、これまでに誰も見たことがない姿で眼前に展開しているのだ。試合中に、誓子は何度もその「不思議」を見つめ直したにちがいない。人工的に演出されたワンダーランドのなかにいて、すっと「土」という自然に着目する才質は、俳人としての修練を経てきた者を強く感じさせる。ちなみに、日本の初ナイターは1948年(昭和二十三年八月十七日)の巨人中日戦(横浜ゲーリッグ球場)だった。田舎の野球小僧だった私は、雑誌「野球少年」のカラー口絵でそれを知った。平井照敏『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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