近隣でひったくり事件が多発。被害者には高齢の女性が多いという。弱者がより弱い者をねらうのだ。




2000ソスN6ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2262000

 毛虫の季節エレベーターに同性ばかり

                           岡本 眸

くわからないが、何となく気になる句がある。これも、その一つ。こうした偶然は、女性客の多いデパートのエレベーターなどで、結構起きているのだろう。「同性ばかり」とこだわっているからには、二、三人の同性客ではない。満員か、それに近い状態なのだ。それでなくとも、満員のエレベーターのなかは気詰まりなのに、同性ばかりだから無遠慮に身体や荷物を押し付けてくる女もいたにちがいない。なかには人の頭を飛び越して、傍若無人の大声でロクでもない会話をかわしている……。そこでふと、作者はいまが「毛虫の季節」であることを連想したということだろうか。着飾ってはいるとしても、蝶の優雅さにはほど遠い女たち。毛虫どもめと、一瞬、焼き殺したくなったかもしれない。おぞましや。句の字余りが、怒りと鬱陶しさを増幅している。こんなふうに読んでみたが、ここはやはり作者と同性の読者の「観賞」に待つべきだろう。エレベーターで思い出した。昭和の初期に出た「マナー読本」の類に「昇降機での礼儀心得」という項目があり、第一項は次のようであった。「昇降機に乗ったら、必ずドアのほうに向き直って直立すべし」。向き直らない人もいたようである。『朝』(1961)所収。(清水哲男)


June 2162000

 紫陽花に吾が下り立てば部屋は空ら

                           波多野爽波

っはっは、そりゃそうだ。そういう理屈だ。……と読んで、さて、このあまりにも当たり前な世界のどこに魅力を感じるのかと、さっきから句を反芻している。咲いた紫陽花をよく見ようと、作者は庭に下り立った。私だったら、意識はたぶんそのまま紫陽花に集中するだろうが、爽波は違う。集中する前に、ふっと後ろが気になっている。すかさず、その気持ちを詠んだというわけだ。梅雨の晴れ間だろう。明るい庭から部屋を振り向いたとしたら、そこは暗くて湿っぽい「空ら」の空間だ。この対比を考えると、自分がこの世からいなくなったときの「空ら」の部屋そのものとして浮き上がってくるようである。庭に下りても、この世からおさらばしても、部屋はそのがらんどう性において、まったく変わりはない。掲句はそのことを強調しているわけでもないし、暗示すらしていないのだが、しかし、この「空ら」にはそのあたりまで読者を連れていく力がある。力の源にあるのは、結局のところ「俳句という様式」だろうと思う。俳句として読むから、読者は「はっはっは」ではすまなくなるのだ。『鋪道の花』(1956)所収。(清水哲男)


June 2062000

 羅や口つけ煙草焔を押して

                           北野平八

(うすもの)は、薄くすけて、いかにも涼しげな夏の着物。多くは、女性が着る。羅の句では、松本たかしの「羅をゆるやかに着て崩れざる」が有名だ。作者は平凡な日常シーンのスケッチを得意としたが、この句もうまいものである。見知らぬ女性に煙草の火を貸している場面。「どうぞ」と自分の吸っている煙草を差し出すと、相手は焔(ほ)を押すようにして火をつける。そのときに羅を着た身体が接近することになるわけで、「口つけ煙草」で押される手先の微妙な感触とともに、不意に異性の淡い肉感が作者を走り抜けたというところだろう。百円ライターという無粋なものが普及する以前には、このような煙草火の貸し借りはごく普通のことだった。駅のホームなどでもよく見られたし、私にも何度も経験がある。煙草好き同士の暗黙の仁義みたいなものがあって、誰も断る人はいなかった。もっとも、あれは道を尋ねるときと同じで、あまり恐そうな人には頼まないのだけど(笑)。百円ライターのせいもあるが、嫌煙権が猛威をふるっている現在では、こうしたやりとりも消えてしまった。句が作られたのは1986年の夏、作者はこの年の十一月に六十七歳で亡くなることになる。桂信子門。『北野平八句集』(1987)所収。(清水哲男)




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