現代詩文庫『鈴木漠詩集』解説に着手。40年前の『星と破船』以来のご縁だが、お会いできたのは昨年。




2000ソスN6ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2462000

 篠の子と万年筆を並べ置く

                           岡田史乃

語は「篠(すず)の子」。篠竹(しのたけ)の筍のことだ。小指ほどの細さで、風味がよいことから山菜として親しまれている。「篠の子の果して出でし膳の上」(細川加賀)。さて、俳句ではよく「取り合わせの妙」ということを言う。短い詩型だから、読者の思いも及ばぬ物や事象を取り合わせて並べると、その意外な組み合わせが独特の世界を築き上げる。なかにはウナギと梅干しなどのように「食いあわせ」みたいな句もある(笑)が、俳句の重要な作法の一つだ。掲句も、一見すると「取り合わせ」句に思えるかもしれないけれど、そうではないところが面白い。「篠の子」と「万年筆」を取り合わせているのは句の外なのであって、句の内側はまったくの写生句である。客観描写だ。俳句を読み慣れている読者なら、「あっ、やられた」と微苦笑するにちがいない。細くてシックな女性用の万年筆の横に、同じくらいの細さの篠の子を「並べ置く」。その行為自体にさしたる意味はないにしても、並べてみると万年筆も篠の子も、そして机上の雰囲気もが、いつもと違って見えてくるだろう。つまり、作者は日常の世界で具体的に俳句を実践し、それをレポートしたのが掲句ということになる。ちなみに、作者は俳誌「篠(すず)」の主宰者である。「史乃」を「篠」に読み替え、もう一度ひねったわけだ。『浮いてこい』(1983)所収。(清水哲男)


June 2362000

 早介が虚空をつかむ螢かな

                           湯本希杖

介は、おそらく小さな孫の名前だろう。蛍をつかまえようとして、「虚空」をつかんでしまった。孫の失敗も、また楽し。「ほれ、ほら」と声をかけながら、早介を見守る作者の慈顔が目に見えるようだ。希杖は、宝暦から天保期にかけて信州に住んだ一茶の弟子。湯田中温泉近くに「如意の湯」と名づけた別荘を建て、その子其秋とともに師を手厚く遇したという。一茶のいわばパトロンの一人で、芭蕉などもそうであったように、こうした人たちの生活支援があったからこそ、一茶らの文名も現代にまで伝えられることになった。そんな知識から句を読み返してみると、なるほど一茶への傾倒ぶりがよく現れている。そっくりと言っても、過言ではない。眼目は「虚空」にある。と言っても、もちろん句の「虚空」には近代的な味付けなどないわけで、単に物理的な「虚しい(何もない)空間」という意味だ。いまとは大違いで、昔の夜は真の闇。鼻をつままれても相手が誰だかわからないほどだったので、蛍の光りは見えても、相対的な距離感がとれないから、飛ぶ位置の見当をつけるのは大人でも難しい。したがって、可愛い早介の失敗にも笑っていられる。べつに、早介がのろまというわけじゃないのだ。これが江戸期の地方に暮らした庶民の、ごく普通の「蛍狩」の情景だろう。『一茶十哲句集』(1942)所収。(清水哲男)


June 2262000

 毛虫の季節エレベーターに同性ばかり

                           岡本 眸

くわからないが、何となく気になる句がある。これも、その一つ。こうした偶然は、女性客の多いデパートのエレベーターなどで、結構起きているのだろう。「同性ばかり」とこだわっているからには、二、三人の同性客ではない。満員か、それに近い状態なのだ。それでなくとも、満員のエレベーターのなかは気詰まりなのに、同性ばかりだから無遠慮に身体や荷物を押し付けてくる女もいたにちがいない。なかには人の頭を飛び越して、傍若無人の大声でロクでもない会話をかわしている……。そこでふと、作者はいまが「毛虫の季節」であることを連想したということだろうか。着飾ってはいるとしても、蝶の優雅さにはほど遠い女たち。毛虫どもめと、一瞬、焼き殺したくなったかもしれない。おぞましや。句の字余りが、怒りと鬱陶しさを増幅している。こんなふうに読んでみたが、ここはやはり作者と同性の読者の「観賞」に待つべきだろう。エレベーターで思い出した。昭和の初期に出た「マナー読本」の類に「昇降機での礼儀心得」という項目があり、第一項は次のようであった。「昇降機に乗ったら、必ずドアのほうに向き直って直立すべし」。向き直らない人もいたようである。『朝』(1961)所収。(清水哲男)




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