余白句会メンバーのアーサー・ビナードが詩集『釣り上げては』(思潮社)を出した。見てください。




2000ソスN6ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2862000

 花合歓や凪とは横に走る瑠璃

                           中村草田男

歓(ねむ)の花を透かして、凪(な)いだ瑠璃(るり)色の海を見ている。合歓が咲いているのだから、夕景だ。刷毛ではいたような繊細な合歓の花(この部分は雄しべ)と力強く「横に走る」海との対比の妙。色彩感覚も素晴らしい。海辺で咲く合歓を見たことはないが、本当に見えるような気がする。田舎にいたころ、学校に通う道の川畔に一本だけ合歓の木があって、どちらかというと、小さな葉っぱのほうが好きだった。花よりも、もっと繊細な感じがする。暗くなると眠る神秘性にも魅かれていた。眠るのは、葉の付け根の細胞の水分が少なくなるからだそうだ。ところで合歓というと、芭蕉の「象潟や雨に西施がねぶの花」が名高い。夜に咲き昼つぽむ花に、芭蕉は非運の美女を象徴させたわけだ。しかし、この句があまりにも有名であるがために、後に合歓を詠む俳人は苦労することになった。それこそ草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」が、同じ季題で詠むときの邪魔(笑)になるように……。合歓句に女性を登場させたり連想を持ち込むと、もうそれだけで芭蕉の勝ちになる。ましてや「象潟(きさがた)」なる地名を詠むなどはとんでもない。だから、懸命にそこを避けて通るか、あるいは開き直って「象潟やけふの雨降る合歓の花」(細川加賀)とやっちまうか。そこで遂に業を煮やした安住敦は、怒りを込めて一句ひねった。すなわち「合歓咲いてゐしとのみ他は想起せず」と。三百年前の男への面当てである。『中村草田男全集』(みすず書房)所収。(清水哲男)


June 2762000

 夢に見し人遂に来ず六月尽く

                           阿部みどり女

句集に収められているから、晩年の病床での句だろうか。夢にまで見た人が、遂に現れないまま、六月が尽(つ)きてしまった。季語「六月尽(ろくがつじん)」の必然性は、六月に詠まれたというばかりではなく、会えないままに一年の半分が過ぎてしまったという感慨にある。作者はこのときに九十代だから、夢に現われたこの人は現実に生きてある人ではないように思える。少なくとも、長年音信不通になったままの人、連絡のとりようもない人だ。もとより作者は会えるはずもないことを知っているわけで、そのあたりに老いの悲しみが痛切に感じられる。将来の私にも、こういうことが起きるのだろうか。読者は、句の前でしばし沈思するだろう。同じ句集に「訪づれに心はずみぬ三味線草」があり、読みあわせるとなおさらに哀切感に誘われる。「三味線草」は「薺(なずな)」、俗に「ぺんぺん草」と言う。そして掲句は、こうした作者についての情報を何も知らなくとも、十分に読むに耐える句だと思う。「夢に見し人」への思いは、私たちに共通するものだからである。虚子門。『石蕗』(1982)所収。(清水哲男)


June 2662000

 蟻が蟻負いゆく大歓声の中

                           辻本冷湖

が蝶の羽を引いていく。その様子を見て「ああ、ヨットのようだ」と書いた詩人がいる。ほほ笑ましいスケッチではあるにしても、掲句に比べれば、かなり凡庸な発想と言わざるを得ない。同じような庭の片隅などでのスケッチにしても、句は、仲間の蟻(傷ついているのか、もはや息絶えているのか)を懸命に引いていく姿を、実際には起きていない「大歓声」を心中に起こすことで活写してみせた。「大歓声」の分だけ、蟻の世界に食い込んでいる。蟻の生命とともに、作者も生きている。「ヨット」詩人にとっては、蟻や蝶の生命なんかどうでもよいわけだが、作者にはどうでもよくはないのである。実際、この句を読むと「がんばれよ」と、思わずも手に力が入ってしまう。ちっぽけな庭の片隅が、オリンピックの競技場くらいまでに拡大される。そういえば私にも、暑い庭先にしゃがみこんで、いつまでも蟻たちの活動ぶりを眺めていた頃があったっけ。一匹ずつつまみあげては方向転換をさせてみたり、彼らの巣にバケツで水をぶち込んでみたりと、相当なわるさもしたけれど……。掲句のおかげで、ひさしぶりに子供だった頃の夏を思い出した。玄関先に咲いていた、砂埃にまみれた松葉牡丹の様子なんかもね。『現代俳句年鑑2000』(現代俳句協会)所載。(清水哲男)




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