July 012000
夕月に七月の蝶のぼりけり
原 石鼎
美しい。文句なし。暮れ方のむらさきいろの空に白い月がかかって、さながらシルエットのように黒い蝶がのぼっていった。まだ十分に暑さの残る「七月」のたそがれどきに、すずやかな風をもたらすような一句である。「月」と「蝶」との大胆な取りあわせ。墨絵というよりも錦絵か。しかし、そんじょそこらの「花鳥風月図」よりも、もっと絵なのであり、もっと凄みさえあって美しい。掲句に接して、思ったこと。私などのように、あくせくと何かに突っかかっているばかりでは駄目だということ。作者の十分の一なりとも、美的なふところの深さを持たなければ、せっかく生きている値打ちも薄れてしまう。このままでは、美しいものも見損なってしまう。いや、もうずいぶんと見損なってきたにちがいない……。「増殖する俳句歳時記」開設四周年にあたって、もう一つ何かに目を開かれたような気分のする今日このときである。今後とも、どうかよろしくおつきあいのほどを。ちなみに、句を味わっている読者の雰囲気をこわすようで恐縮だが、本日は昼の月で月齢も28.6。残念ながら、晴れていても見えない。平井照敏編『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)
July 012001
七月や既にたのしき草の丈
日野草城
月半ばに梅雨が明けると、いよいよ夏の盛りが訪れる。下旬には、子供らの夏休みもはじまる。暑さも暑しの季節だが、自然的にも人事的にも他の月とは違い、「七月」は活気溢れるイメージに満ちた月だ。掲句は「既にたのしき」とあるから、まだ盛夏ではなく、新しく今月を迎えたばかりの感慨である。ぐんぐんと伸びつづける「草の丈」に、夏の真っ盛りも近いと感じ、しかも技巧的にごちゃごちゃと細工したりせずに、素朴に「たのしき」と言い止めたところが素晴らしい。この句を読んだ人はみな、庭などの「草の丈」をあらためて見てみたくなるだろう。晩年に近い長期療養中の作句であるが、作者自身の生命力のありようも伝わってくる。まだ若くて元気なころの句に「七月のつめたきスウプ澄み透り」があるけれど、モダンで美々しくはあっても、むしろ生命力の希薄さを覚えさせられる。「七月」という言葉の必然性も、体感的には希薄だ。すなわち、健康な人はついに健康を対象化できないということか。その必要もないからと言えばそれまでだし、たぶんそういうことなのだろうが……。『人生の午後』(1953)所収。(清水哲男)
July 022003
夜間飛行機子と七月の湯屋を出て
磯貝碧蹄館
昼間の汗を流して、さっぱりした気分で「湯屋(ゆや・風呂屋)」を出た。おそらく「子」が見つけたのだろう。指さす方向を見やると、小さな赤い灯を曳きながら、音もなく「夜間飛行機」が飛んでいる。しばし、立ち止まって眺めている親と子。七月の夜の涼風が心地よい。風呂帰りの句は数あるが、月や星ではなく飛行機をもってきたところに、新しい涼味が感じられる。もっとも新しいとは言っても、作句年は不明なれど、現代の句ではない。まだ夜間飛行がとても珍しく、ロマンチックな対象として映画や小説、詩歌などに盛んに登場した時代の句だと思う。したがって、飛んでいるのはジェット機ではなくプロペラ機だ。いまどきのジェット機では、風物詩というわけにはまいらない。ところで飛行機の話だから話は飛ぶ(笑)が、地上からは一見悠々と飛行しているようには見えても、夜のパイロットはいまでも大変のようだ。風呂上がりのさっぱり気分どころか、緊張で脂汗を滲ませての飛行である。日本航空機操縦士協会(JAPA)のHPを見ると、自家用機から商用機にいたるまで、夜間飛行の危険に対する共通の注意事項が縷々指摘されている。私にもわかる項目のいくつかを抜き書きしておくと、次のようだ。(1)夜間の離着陸は、飛行場灯火のながれを見て速度を判断するが昼間の速度感覚よりも遅く感じられる。(2)夜間飛行中に空間識失調に陥った場合には回復が困難。(3)緊急事態になった場合に、夜間の不時着は困難。(4)乱気流に入った場合には、その揺れは強く感じられて、不安感も大きい。(5)夕暮れに着陸するときには、上空はまだ明るくても地上は早く暗くなっている。(6)電気系統が故障した場合には緊急事態につながる、等々。私などはこれに高所恐怖症も加わるから、一挙に湯冷めしそうな恐ろしい世界に感じられる。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)
July 142009
黒猫は黒のかたまり麦の秋
坪内稔典
麦の秋とは、秋の麦のことではなく、ものの実る秋のように麦が黄金色になる夏の時期を呼ぶのだから、俳句の言葉はややこしい。麦の収穫は梅雨入り前に行わなければならないこともあり、関東地域では6月上旬あたりだが、北海道ではちょうど今頃が、地平線まで続く一面の麦畑が黄金色となって、軽やかな音を立てていることだろう。掲句の「黒のかたまり」とは、まさしく漆黒の猫そのものの形容であろう。猫の約束でもあるような、しなやかな肢体のなかでも、もっとも流麗な黒ずくめの猫に、麦の秋を取り合せることで、唯一の色彩である金色の瞳を思わせている。また、同句集には他にも〈ふきげんというかたまりの冬の犀〉〈カバというかたまりがおり十二月〉〈七月の水のかたまりだろうカバ〉などが登場する。かたまりとは、ものごとの集合体をあらわすと同時に、「欲望のかたまり」や「誠実のかたまり」など、性質の極端な状態にも使用される。かたまりこそ、何かであることの存在の証明なのだ。かたまり句の一群は「そして、お前は何のかたまりなのか」と、静かに問われているようにも思える。『水のかたまり』(2009)所収。(土肥あき子)
June 302011
七月の天気雨から姉の出て
あざ蓉子
じめじめした梅雨が去ると天気予報に「晴れ」マークの続く本格的な夏の訪れとなる。明日から七月。この夏、東京は15パーセントの削減目標で節電を実施することになっている。昨年の酷暑を思うと本格的な夏の訪れが恐ろしい。どうか手加減してください。と、」空に向かって祈りたい気持ちになる。「天気雨」は日が照っているのに細かい雨が降る現象。沖縄県鳩間島では「天泣」という言葉もあるらしい。仰ぐ空に雲らしきものは見えないのに雨が降る不思議、七月の明るい陽射しに細かい雨脚がきらきらと光っている。その天気雨の中から姉が出てくるのだろうか。「キツネの嫁入り」という天気雨の別の呼称が立ちあがってくるせいか、白い横顔をちらと見せる女の姿が思われる。天気雨が通過するたび遠くへ去った姉の面影が帰ってくるのかもしれない。『天気雨』(2010)所収。(三宅やよい)
July 022012
七月を歩き出さむと塩むすび
高木松栄
七月に入った。まもなく暑い日々がやってくる。それなりの覚悟を決めて、この月を乗り切らねばならぬ。そのためにはまず、何はともあれ腹ごしらえだと、「塩むすび」を頬ばっている。「塩むすび」とはまた懐かしい響きだが、まだ冷房が普及していなかったころの句だろうか。だとすれば、粗食の時代でもあった。だからこの句は、昔の生活感覚を共有できる読者でないと、理解できないだろう。いまの若い人には、なぜ腹ごしらえなのか、なぜ塩むすびなのかが、観念的にはわかるかもしれないが、生活感覚的に当然だと受けとめることは不可能に近いはずだ。したがって、こういう句は、今後は作られることはないだろう。第一、「塩むすび」に代わり得る食品がない。パンでも駄目だし、ラーメンでも駄目。かつての「塩むすび」のように、それだけで時代のありようを集約できる食べ物は、もうないのである。こんな平凡なことが私たちにとって、そして俳句にとっても、意外に大きな意味を持っていることに、あらためて驚かされる。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)
July 142013
七月のなにも落さぬ谷時間
秋元不死男
七月は、花も散らない。木の葉も落ちない。蝉の脱け殻が落ちてくるには少し早すぎる。梅雨が明け、雨も降らない。空は雲もなく晴れていて風もなく、谷の斜面の樹木は、濃い緑の葉を繁らせている。動くもののない谷間の時間は静止している。秒針が動いて、日が傾いて時の経過を知るわけですが、なにも落ちてくるものがない真昼の谷間では、静止画の中に入れられたような感覚に陥って、時間の迷子になった気持ちなのかもしれません。あるいは、なにも落とさぬ樹木や生物に、生命の緊張を感じとり、谷の空間に平衡が保たれている状態を谷時間としたのかもしれません。七月は、一年の中でも中間に位置します。植物や動物と、空と地形とが、あるバランスをとっていて、俳人は、偶然にもその中点に立つことができた。谷時間とは、そのような立ち位置に居て、初めて感得できる言葉なのかもしれません。詩の言葉であり、哲学の、自然科学の言葉のようでもあります。詩と哲学と自然科学の中点。なお、前書に「秩父・高麗郷」とあります。昭和五十年、七十四歳の作。二年後第四句集『甘露集』(1977)に所収するも、刊行を待たずに永眠されました。(小笠原高志)
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