当ページも、あと六年となった。六年間で何ができるか。少なくとも小学校は卒業できる。生きねば。




2000ソスN7ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0172000

 夕月に七月の蝶のぼりけり

                           原 石鼎

しい。文句なし。暮れ方のむらさきいろの空に白い月がかかって、さながらシルエットのように黒い蝶がのぼっていった。まだ十分に暑さの残る「七月」のたそがれどきに、すずやかな風をもたらすような一句である。「月」と「蝶」との大胆な取りあわせ。墨絵というよりも錦絵か。しかし、そんじょそこらの「花鳥風月図」よりも、もっと絵なのであり、もっと凄みさえあって美しい。掲句に接して、思ったこと。私などのように、あくせくと何かに突っかかっているばかりでは駄目だということ。作者の十分の一なりとも、美的なふところの深さを持たなければ、せっかく生きている値打ちも薄れてしまう。このままでは、美しいものも見損なってしまう。いや、もうずいぶんと見損なってきたにちがいない……。「増殖する俳句歳時記」開設四周年にあたって、もう一つ何かに目を開かれたような気分のする今日このときである。今後とも、どうかよろしくおつきあいのほどを。ちなみに、句を味わっている読者の雰囲気をこわすようで恐縮だが、本日は昼の月で月齢も28.6。残念ながら、晴れていても見えない。平井照敏編『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


June 3062000

 三島の宿雨に鰻をやく匂ひ

                           杉本 寛

のまんまの挨拶句だが、まずは雨降りというシチュエーションが利いている。湿った空気のなか、どこからか鰻をやく匂いが低くかすかに漂ってくる。晴れていれば暑苦しいばかりの匂いも、雨に溶けているかのように親しく匂ってくるのだ。旅情満点。酒飲みなら、そこらへんの店で必ず一杯やりたくなるだろう。「やく」と平仮名にしたところも、うなずける。「さあ、いらっしゃい」と景気付けの店先では「焼く」だけれど、雨の情趣を出すには「やく」でなければならない。静岡県の三島だから、高級な鰻のやわらかさにも連想が行く。よい映画批評が私たちを映画館に連れていくように、掲句は雨の三島への旅情を誘う。私にとって三島は未知の土地だが、行く機会があったら、きっとこの句を思い出すだろう。近ごろの鰻は養殖が増え、すっかり季節感がなくなってしまったが、元来は夏のものだ。少年時代の田舎の川にも鰻がいて、若い衆の見様見まねで鰻掻(うなぎかき)で取ろうとはしたものの、とうてい子供の手におえるような相手ではなかった。ちゃんとした鰻を食べたのは、二十代に入ってからである。さて、今日で六月もおしまい。間もなく、鰻受難の季節がやってくる。『杉本寛集』(1988・俳人協会刋)所収。(清水哲男)


June 2962000

 学成らずもんじゃ焼いてる梅雨の路地

                           小沢信男

書に「月島西仲通り」とある。東京の下町だ。「もんじゃ(焼き)」は近年マスコミで紹介され、東京土産としてセットも売られているので、全国的に知られるようになってきた。一応『広辞苑』から定義を引いておくと、「小麦粉をゆるく溶き、具をあまり入れずに、鉄板で焼きながら食べる料理。焼く時に鉄板にたねで字を書いて楽しんだことで『文字焼き』の転という」。句意は明瞭にして、句感はひどく切ない。同じような食べ物でも、「お好み焼き」だとこうはいかないだろう。座が、はなやぎ過ぎるからだ。ところで、当ページにときどき出てくる「余白句会」は、実はこの句に発している。作者と辻征夫などが詩誌「詩学」投稿欄の選者だった折り、雑談で俳句の話になり、そのときに辻が好きな句としてあげたのが、この句だった。彼は種村季弘が句を激賞していた文章で覚えていたのだが、作者名は失念してしまっていた。で、「作者は忘れちゃったんですけど……」と、作者本人を前に滔々と激賞したというわけだ。このときの作者の困ったような顔を想像すると、可笑しい。それがきっかけとなって楽しい句会が誕生したのだが、こういう場合はいったい誰に感謝すればよいのだろうか(笑)。井川博年の観察によれば、掲句は学者など「学成った人」に評判がよいそうだ。わかるような気がする。なお掲句については、既にその井川君の観賞が掲載されています(1997年6月3日付)。『んの字 小沢信男全句集』(2000)。(清水哲男)




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