2000蟷エ7譛医ョ句

July 0172000

 夕月に七月の蝶のぼりけり

                           原 石鼎

しい。文句なし。暮れ方のむらさきいろの空に白い月がかかって、さながらシルエットのように黒い蝶がのぼっていった。まだ十分に暑さの残る「七月」のたそがれどきに、すずやかな風をもたらすような一句である。「月」と「蝶」との大胆な取りあわせ。墨絵というよりも錦絵か。しかし、そんじょそこらの「花鳥風月図」よりも、もっと絵なのであり、もっと凄みさえあって美しい。掲句に接して、思ったこと。私などのように、あくせくと何かに突っかかっているばかりでは駄目だということ。作者の十分の一なりとも、美的なふところの深さを持たなければ、せっかく生きている値打ちも薄れてしまう。このままでは、美しいものも見損なってしまう。いや、もうずいぶんと見損なってきたにちがいない……。「増殖する俳句歳時記」開設四周年にあたって、もう一つ何かに目を開かれたような気分のする今日このときである。今後とも、どうかよろしくおつきあいのほどを。ちなみに、句を味わっている読者の雰囲気をこわすようで恐縮だが、本日は昼の月で月齢も28.6。残念ながら、晴れていても見えない。平井照敏編『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


July 0272000

 山百合の天に近きを折り呉るる

                           櫛原希伊子

誌「百鳥」が届くと、待ちかねて同人欄で最初に読むのが、櫛原希伊子の句だ。この人の句は、なによりも思い切りがよい。「天に近きを」と言ったのは、事実描写であると同時に、山百合のこの上ない美しさに「天」を感じたからだ。野生の山百合には、他の百合には及ばない気高さがある。この気高さは、たしかに「天」を思わせる。小学校の通学路(山道)に、山百合の乱れ咲く小高い山があった。たまに道草をして、山百合や小笹の群生する丘を分けのぼり、寝転がって空を眺めるのが好きだった。空からは、長閑な閑古鳥の声が聞こえ、細目で真下から見上げる花の美しさは、子供心にも強く訴えてくるものがあった。後に「山のあなたの空遠く、さいわい住むと人の言う」ではじまるカール・ブッセ(だったかしらん)の詩を習ったが、私にはとうてい外国人の詩とは思えなかった。なんだか、その頃の自分の気持ちを代弁してくれているように感じたからである。詩に山百合は出てこないが、私にははっきりと見えるような気がした。いまでも、この詩を思い出すと、まっさきに山百合の姿が浮かんでくる。山百合の句で人口に膾炙しているのは、富安風生の「山百合を捧げて泳ぎ来る子あり」だろう。風生の句もまた、事実描写であるとともに、その気品のある美しさへの思いを「捧げて」に込めている。やはり、「天」に通じているのだ。『櫛原希伊子集』(2000・俳人協会刊)所収。(清水哲男)


July 0372000

 冷蔵庫西瓜もつともなまぐさし

                           山田みづえ

蔵庫をひんぱんに利用する主婦ならではの発見だ。「もつとも」と言うのだから、肉だとか魚だとかの生臭物も入っている。そのなかで、意外にも「西瓜」がいちばん生臭く見えている。もとより、西瓜にも独特の匂いはあるけれど、ために西瓜嫌いの人も結構いるけれど、作者はそういうことを言っているわけじゃない。西瓜は季節物だし、加えて場所もとるし色彩も派手だから、庫内の情景をがらりと代えてしまう。存在感が生々しく、心理的にはむうっと匂ってくるほどだということ。脱線するが、人間にも句の冷蔵庫のなかの西瓜のように、なぜか生臭く存在感の強い人がいる。季節物のごとく、初対面から注目を集め他を圧する雰囲気のある人。そういう人は、とりわけて芸能界に多い。でも、私の乏しい体験からすると、美空ひばりなどの「大物」には案外存在感はなく、むしろ大物をコントロールする役目の人に多かった感じだ。そりゃ、そうかもしれない。私がインタビューしたときの美空ひばりは舞台(冷蔵庫)から外に出ていたのだし、そのときのマネージャーは仕事の場という庫内にいたのだから。ということは、誰でもそれなりの冷蔵庫のなかにいるときには、本人の自覚とは関係なく、他者を心ならずも圧してしまうこともある理屈となるわけだ。ええっと、何の話をしてたんでしたっけ(苦笑)。『手甲』(1982)所収。(清水哲男)


July 0472000

 夕涼や眼鏡をかけて菊の蟲

                           佐藤魚淵

語は「夕涼(ゆうすず)」。魚淵(なぶち)は信州一茶門。というよりも、友人格というところか。一茶よりも八歳年長で、一茶没後の六年間は一茶門の統領格であったという。涼しさの兆してきた夕方の庭に出て、菊の手入れをしている。いま読むと面白くも可笑しくもない句だが、眼目は「眼鏡」。眼鏡は貴重品だったから、金持ちにしか買えなかったはずだ。だから、当時の多くの読者はいちように「ほおっ」と羨望の念を覚えたにちがいない。「眼鏡頌」と題された前書がある。前書というよりも、眼鏡とは何かの「解説」に近い。以下、引用しておく。「眼がねといふ物、いつの代より始めけるにや。老てしばらくも此のものなからましかバ、盲の空をなでるが如く暗きよりくらきに迷ひなん。それさえ世々に工ミにたくみをかさねて、虱を大象程にみせ、牛を芥子粒ばかりに見するも渠が幻術なりけり。又近頃屏風のやうに紙にて蝶つがひといふを拵へて、畳で巾着におし込小とりまわしなど、佛もさたし申されざる調法になん有りける。此等みな末世に生れたる楽しミならずや」。実は、私も目が悪い。十年程前に両眼とも水晶体が自然に剥離してしまい、裸眼では焦点が結ばなくなった。特殊なコンタクトレンズでカバーしている。これが発明されてなかったら、表は歩けなかったろう。このページも作れなかった。だから、魚淵の喜びようは身にしみてわかる。『一茶十哲句集』(1942)所収。(清水哲男)


July 0572000

 生き得たる四十九年や胡瓜咲く

                           日野草城

語は「胡瓜(きゅうり)の花」。観賞するような立派な花じゃない。黄色くて、たいていは炎天下でしおたれている。そんな地味な花に目をとめて、生きている喜びを分かち合えたのは、草城が病弱だったからだ。このあたり、子規によく似ている。病床六尺の世界。「四十九年」は、もとより「人生わずか五十年」が意識にあってのこと。いまでこそ「人生八十年」と言っているが、「五十年」程度が常識だったのは、そんなに遠い昔の話でもない。戦争という特殊事情もあったにせよ、たしか敗戦の年の男の平均寿命は五十歳にも達していなかった。だから、作者はよくぞここまでの感慨をもって作句しているのだ。病弱ではない人でも、齢を重ねるに連れて、花は花でも、華麗でない花や名も知らぬ路傍の花に魅かれたりする。かくいう私も、そうなりつつあるようだ。稲垣足穂の名言に「齢を重ねるうちに、人の関心は動物から植物へ、植物から鉱物へと移行する」というのがある。となれば、地味な胡瓜の花への関心などは、さしずめ鉱物へのそれの移行過程を示すものかもしれない。だいぶ前に「アサヒグラフ」で、足穂の夕食の写真を見たことがある。テーブルの上には数本のビール瓶が並んでいるだけで、後は見事に何もなかった。ちょっとした「つまみ」すらもない。その前で、奥さんといっしよに、むうっとした表情の足穂が写っていた。完璧に「鉱物」の世界の人だなと思えた。『日野草城句集』(新潮文庫)所収。(清水哲男)


July 0672000

 あつきものむかし大坂夏御陣

                           夏目漱石

りゃ、物凄く暑かったろう。なにせ、みんな戦(いくさ)支度だもの。大坂夏の陣は、1615年(元和元年)夏。徳川家康・秀忠の大軍の前に、豊臣秀頼(23歳)、淀君(48歳)が自刃して果て、豊臣家が息絶えた戦であった。夏の陣のことを思うとき、たいていの人は二人の悲劇に思いをめぐらすだろうが、漱石は「さぞや暑かったろうナと」涼しい顔をしている。シニカルなまなざし。ここらへんが、いかにも漱石らしい。ほとんど「ものはづけ」の雑俳の世界だが、このように同じ事態や事象を見るときに、大きくアングルを転換させる作法も俳句が培ってきたものだ。笑える句。面白い句。この国の近代文学が「喜怒哀楽」の感情のうちの「怒哀」に大きく傾斜していった(それなりの必然性はあったにせよ)なかで、俳句だけは「喜怒哀楽」すべてを詠みつづけてきた。いまでも、詠みつづけている。実にたいしたものだと私は思っていますが、いかがなものでしょうか。ところで、あなたにとって「あつきもの」とは何ですか。漱石以上に意表を突こうとすると、これがなかなか難しい。『漱石俳句集』(岩波文庫)所収。(清水哲男)


July 0772000

 少女充実あんず噛む眼のほの濁り

                           堀 葦男

心に杏(あんず)を食べている少女の姿。「ほの濁り」の「眼」の発見が卓抜だ。「充実」は少女自身の食欲への満足感を示すと同時に、作者から見た少女の身体的輝きを示している。その象徴的現象を、作者は少女の眼の「ほの濁り」に認めた。言われてみれば、「充実」とは清らかに澄むことではない。生命は濁ることにおいて、外へ外へと力を拡大していく。身体がおのずから沈殿をこばみ、沈殿させまいとおのれを撹拌する。そのことをまた、清涼というにはいささか遠い味わいの杏が保証している。このような少女像は珍しい。誰かれの詩をあげるまでもなく、清らかに澄み切った少女像は、この国の文学が得意としてきたところだ。だが、すべての実際の少女たちは、その身体性において本質的に「ほの濁」つた存在なのである。といって、掲句はミもフタもないことを言っているのではなく、むしろこの少女をいとおしく思っている。「濁り」には時間が感じられ、時間は未来性を含んでいる。作者は少女としての「充実」の先にある「女」への思いを、鋭くも「ほの」かに感じとって、そのひそやかな詠嘆を「少女充実」という固い表現に込めているのだ。『合本俳句歳時記・新版』(1988・角川書店)所載。(清水哲男)


July 0872000

 あんぱんを落として見るや夏の土

                           永田耕衣

意味といえば無意味。ナンセンスの極地。どこがよいのかと問われても、答えに窮する。だが、この句には確実に読者をホッとさせる力がある。それは、どなたも否定できないだろう。耕衣は第一句集『加古』(1934)の自跋で、「一句を得て空漠、二句を得て猶空漠たるが、われらの望むところ」と書いている。出発時からして、意味や知恵を俳句に求めなかったということだろう。さらに敷衍して考えれば、それでなくとも人は世俗的な意味や知恵のなかで生きてゆかねばならぬのに、さらに俳句で屋上屋を重ねるなど愚の骨頂ということのようだ。耕衣は終生、このニヒリズムを手放さなかった。しかし、空漠を生みだすのは、そう簡単なことではない。デタラメでは駄目なのだ。無意味は、常に意味を意識する宿命にあるからである。掲句にそくしていえば、キーは「落として見るや」だ。一つの意味は「試みに落としてみる」であり、もう一つの意味はうかつにも「落として」しまい、それから夏の土を「見る」だろう。この二つの意味が合体したときに、中七句は限りなく無意味に近い意味に転ずる。両方の意味が一瞬同時に読者の脳裏に明滅し、その効果で世俗の意味ははぎ取られてしまう。だから、おのずからホッとする……。「夏の土」の必然性は、他の季節の湿った土だと、乾いた空漠感を提出できないところにある。「あんぱん」がべちゃっとした土に落ちると、そのイメージに気を取られてしまい、中七が利かなくなるからだ。でも、この解釈には異論が出そうだなア(笑)。『人生』(1988)所収。(清水哲男)


July 0972000

 日輪を隠す日光日日草

                           池田澄子

ンカン照り。日輪のありどころがわからぬくらいに、日差しが強いのである。風景が白っぽく見えている。天の「日輪を隠す」のが、ほかならぬ太陽が発した「日光」であるところが面白い。鋭い観察だ。そして地上の花壇では「日日草(にちにちそう)」が咲き誇り、暑さの感覚をいやがうえにも盛り上げている。武者小路実篤の「天に星、地に花」の盛夏白昼版とでも言うべきか(笑)。漢字の「日」を四つ並べて見せたのも効果的で、一瞬どの「日」が句のなかのどこに定まっているのかわからないあたりにも、暑いさなかに特有の軽い目まい感がある。「日日草」には「そのひぐさ」という異名もあるように、日々新しく咲きかわる。暑さなどものともせずに、強い生命力を謳歌する。それも道理で、西インドはマダガスカル島原産だそうな。よく見れば、一つ一つは可憐な花だけど、よく見る気にもなれない季節に咲くので、ちょっと気の毒のような気もする。濃緑色の葉につやがあるのも、暑苦しい感じで損をしている。『ゆく船』(2000)所収。(清水哲男)


July 1072000

 夏河を越すうれしさよ手に草履

                           与謝蕪村

語は「夏の川」。夏の川は、梅雨時から盛夏、晩夏と季のうつろいにしたがって、さまざまな表情を見せる。蕪村は「河」と書いているが、句のそれは丹後(現在の京都府)は与謝地方の小川だったことが知れている。川底の小石までがくっきりと見える清らかな真夏の小川だ。深さは、せいぜいが膝頭くらいまでか。草履(ぞうり)を手に持ち、裾をからげてわたっていく「うれしさ」が、ストレートに伝わってくる。作者はこのとき、すっかり子供時代にかえって、うきうきしているようだ。べつに、わたる先に用事があったわけじゃない。思いついて「たわむれ」に川に入ったということ。そのことは「手に草履」が示していて、「たわむれ」ではなかったら、あらかじめ草履ではなく、はいたままでわたれる草鞋(わらじ)を用意していたはずだからだ。わざわざ「手に草履」と書いたのは、あくまでも私の行為は「たわむれ」なのですよと、同時代の読者にことわっているのである。同時に「ウラヤマシイデショ」というメッセージも、ちょっぴり含んでいるような……。「企む俳人」蕪村にしては、珍しくも稚気そのままを述べた句だと「うれしく」なった。(清水哲男)


July 1172000

 針葉のひかり鋭くソーダ水

                           藤木清子

葉とは、この場合は松葉だろうか。たとえば、台風一過の昼さがり。澄んだ大気のなかに日が射してきて、庭の松葉の一本一本がくっきりと見えるほどに鮮やかだ。そして、テーブルの上には清涼感に満ちたソーダ水。その発泡も鮮やかである。すべてのものの輪郭がくっきりとしている情景に、作者の心も澄み切っている。生きる活力が湧いてくるようだ。作者には同じような心情の「蒼穹に心触れつつすだれ吊る」などがあるが、他方では「麻雀に過去も未来もなきおのれ」などの鬱屈した句も多い。1935年(昭和十年)に創刊された日野草城の「旗艦」に出句。新興俳句の最初の女性として将来を嘱望されたが、わずか四年にも満たない活動の後に、「ひとすじに生きて目標うしなへり」を残し、忽然として姿を消してしまった。現在に至るも生年も出身地も不明、生死も不明のままだ。最後の句から掲句を透視してみると、人生にきっちり折り目をつけないと気のすまぬ性格だったのかもしれない。なお藤木清子については、中村苑子がもう一人の幻の女流俳人・鈴木しづ子(当歳時記既出)と並べて、発売中の「俳句研究」(2000年7月号)に愛惜の思いを込めて書いている。『女流俳句集成』(1999・立風書房)所載。(清水哲男)


July 1272000

 暑き日を海に入れたり最上川

                           松尾芭蕉

上川の河口は酒田(山形県)だ。いましも、遠い水平線に真っ赤な太陽が沈もうとしている。その情景を「沈む」と抒情せず、最上川が太陽を押し「入れたり」と捉えたところに、芭蕉の真骨頂がある。最上川の豊かな水量とエネルギッシュな水流とが想像され、また押し「入れ」られてゆく太陽の力感も想起され、読者はその壮大なポエジーに圧倒される。初案は「涼しさや海に入たる最上川」だったという。このときに「入たる」を「いりたる」と読んでしまうとさして面白みはない句になるが、掲句と同様に「いれたる」と読めば、句はにわかに活気を帯びて動き出す。つまり、最上川が自分自身を悠々として海に「入れた」ということになり、情景は雄大なスケールのなかに浮き上がってくる。ただ、この情景が「涼しさ」に通じるかどうかについては、意見の分かれるところだろう。芭蕉としても地元への挨拶としての「涼しさ」(真夏というのに、当地は涼しくて良いところですね)の使用だったろうから、はじめから若干の無理は感じていたのかもしれない。捨てがたい味わいを持つが、やはり掲句の格が数段上である。(清水哲男)


July 1372000

 藺ざぶとん難しき字は拡大し

                           波多野爽波

は「い」と読み、「藺ざぶとん」は藺草(いぐさ)で織った夏用の座布団のこと。よく見かける座布団で、四角いものも丸いものもある。なるほど「藺」という字は難しい。何気なく尻に敷いている「藺ざぶとん」だが、ふと「藺」というややこしい漢字が気になったので、調べてみたのだろう。でも、辞書の文字が小さくて、よく見えない。早速、天眼鏡で拡大してみて、ははあんとうなずいている。最近は、いつもこうだ。だいぶ視力が衰えてきたなア。そんな思いを、深刻めかさずに詠んでいる。テーマが「藺ざぶとん」そのものにはなく、名前の一文字であるところから、とぼけた味わいが浮かんでくるのだ。多くの読者にとっては、どうでもよいようなことであり、もとより爽波もそんなことは承知の上で作っている。これぞ、人をクッた爽波流。そういえば辻征夫(俳号・貨物船)にも似たような才質があって、たとえば「つという雨ゆという雨ぽつりぽつり」であるが、上手いのか下手なのか、さっぱりわからない。でも、確実にとぼけた良い味は出せている。『一筆』(1990)所収。(清水哲男)


July 1472000

 蛇搏ちし棒が昨日も今日もある

                           北野平八

に遭遇して、そこらへんに立て掛けてあった棒切れを引っ掴み、夢中で搏(う)った。その棒が、昨日も今日も同じところに立て掛けられている。目にするたびに、蛇を搏った感触がよみがえってきて、嫌な気分がする。捨ててしまえばよいものを、捨てられないわけでもあるのだろう。私も、何度か蛇を搏った経験があるので、この句の生臭さはよくわかる。マムシとハブ以外の蛇は無毒だというが、ニワトリを飼っている農家にとっては天敵だった。こいつに侵入されたが最後、何個でも呑み込まれてしまう。大切な現金収入の道が、その分だけ断たれてしまうのだ。だから、搏った。しかし生活のためとはいえ、殺生は嫌なものだ。いつまでも感触が手に残り、いまでも思い出す。こうやって書いているだけで、背中をつめたいものが走る。掲句は、そういうことを一息で、しかも静かに控えめに書き留めていて、さすがだと思わせる。北野平八は、いつも小さな声で静かに詠み、それでいて深く胸底にひびくようなことを言った。『北野平八句集』(1987)所収。(清水哲男)


July 1572000

 手花火の柳が好きでそれつきり

                           恩田侑布子

い片恋の思い出だろう。「柳が好きで」には、主語が二つある。そうでないと、句がきちんと成立しない。その人と手花火で遊ぶ機会があって、自分が好きな「柳」を、その人も好きなことを知ったのだ。もちろん心は弾んだが、しかし、その後は親しくつきあうこともなく、手花火の夜の「関係」は「それつきり」になってしまった。「手花火の柳」を見るたびに、ちらりとその夜のことを思い出す。でも、思い出すこともまた「それつきり」なのである。「手花火の柳」が束の間のうちにしだれて消えていくように、句も束の間の記憶を明滅させて、あっけなく「それつきり」と言いさして終わっている。このときに、もはや作者の心は濡れてはいない。むしろ、乾いている。絶妙の俳句的言語配置による効果とでも言うべきか。考えてみれば、ある程度の年齢を重ねた人の人生履歴は、まさに「それつきり」の関係でいっぱいだ。しかりしこうして、掲句の良さが読み取れない読者が存在するとすれば、それは読解力の欠如によるものではないだろう。読み取るには、いささか若すぎるというだけのことにすぎない。『イワンの馬鹿の恋』(2000)所収。(清水哲男)


July 1672000

 あらはなる脳うつくしき水着かな

                           高山れおな

小限の衣服とも呼ぶべき「ビキニ」。それを身につけた状態は「肌もあらはに」という言葉の領域をはるかに越えている。「これはもう裸といえる水着かな」(大野朱香)だとすれば、どんな具合に形容すればよいのだろうか。いささかの皮肉をまじえて、作者は「脳もあらはに」とやってみた。言い当てて妙と私は支持したいが、どうだろう。この水着について「最初の水爆が投下された三平方キロの小島が、ついに到達したぎりぎり最小限の衣服と同じくビキニという名であることは、充分考慮に値する。いささか不気味なウイットである」と書いたのは、ヘルマン・シュライバーというドイツ人だった(『羞恥心の文化史』関楠生訳)。彼によれば、ベルリンの内務省は1932年に次のような警告を発している。「女子が公開の場で水浴することを許されるのは、上半身の前面において胸と体を完全に覆い、両腕の下に密着し、両脚の端の部分を切り落とし、三角形の補布をあてた水着を着用する場合にかぎられる。水着の背のあきは、肩甲骨の下端を越えてはならない……いわゆる家族浴場においては、男子は水着(すなわちパンツと上の部分)を着用することを要する」。この警告からビキニの世界的な普及までには、三十年程度しかかからなかった。ビキニは、二十世紀文化を「脳もあらはに」象徴する記念碑的衣服の一つということになる。俳誌「豈」(32号・2000年5月)所載。(清水哲男)


July 1772000

 朝の僧南瓜の蔓を叱りをり

                           大串 章

だ涼しさのある夏の朝の情景。まずは、作者の弁から。「南瓜の蔓(つる)は縦横無尽に這いまわる。垣根に這いあがり、道に這い出る。甚平姿の僧が暴れん坊の南瓜を叱っている」。寅さん映画に出てきたお坊さん(笠智衆)みたいだ。謹厳実直な僧侶なるがゆえに、ユーモラスに見えてしまう。まったくもって南瓜は元気な植物で、どんなにしいたげられても、自己主張をつづけてやまない。くじけない。蔓も葉っぱも暑苦しい姿で、掲句には「さあ、今日も暑くなるぞ」という気分が込められている。この元気がかわれて、敗戦前後の食料難の時代には、庭の片隅はおろか屋根の上にいたるまでが南瓜だらけになった。来る日も来る日も南瓜ばかり食べていたので、我が家族はみんな顔が黄色くなった記憶もある。そんなわけで、私の世代以上にはいまだに南瓜嫌いが多い。つい近年まで、日本料理屋でもそんな風潮を考慮して、無神経にも南瓜を添えるような店は少なかった。ところが、いまでは大手を振って南瓜が出てくる。ある店で聞いてみたところ、板前の世代交代によるものだと聞かされた。当時のことなど何も知らないので、色彩の鮮やかさから、南瓜をむしろ珍重しているのだという。なあるほど。それでは、叱るわけにもいかない。『大串章集』(1986・俳人協会)所収。(清水哲男)


July 1872000

 かはせみの一句たちまち古びけり

                           黒田杏子

校通学時、最寄り駅まで多摩川を渡ったので、「かはせみ」は親しい存在だった。美しい鳥だ。翡翠(ひすい)を思わせる色なので、漢字では一般的に「翡翠」をあて、魚を取るところから「魚狗(ぎょく)」とも言う。とにかく、素早い動きが特徴。ねらった獲物に一直線に襲いかかり、素早く元いた岸辺に戻ってくる様子は、うっかりすると目では追いきれないほどに感じる。そうやって取ってきた魚は、岩などに叩きつけて殺す。猛禽さながらの鳥なのだが、スズメよりは少し大きい程度の体長であり美しい色彩なので、残酷な印象は残さない。掲句は、そんな「かはせみ」の敏捷さと美々しさとを、暗喩的に捉えた作品だ。「かはせみ」の句をいくつか作ってはみるのだが、眼前にその姿を置いていると、句がスピーディな飛翔感についていけず、たちまちにして「古び」てしまうというのである。対象を直接描かずに詠む技法はよく使われるけれど、なかなか成功しないケースが多い。もってまわった表現になりがちだからだ。その点、この句はぴしゃりと決まっていて、好感が持てる。中村草田男には「はつきりと翡翠色にとびにけり」があって、こちらは流石にどんぴしゃりである。『一木一草』(1995)所収。(清水哲男)


July 1972000

 夕顔に水仕もすみてたゝずめり

                           杉田久女

仕(みずし)は水仕事。台所仕事のこと。一日の水仕事を終え、台所を拭き清めてから裏口に出ると、薄墨色の流れる庭の片隅に大輪の白い夕顔の花が開いていた。しばしたたずむ久女の胸に去来したものは、何だったろう。いや、何も思わず、何も考えなかったのかもしれない。この夕刻のひとときに、女と夕顔が溶け込んでいるような情景だ。「みずしもすみてたたずめり」の音感について、上野さち子は「どこか遠くを想うようなひそかなしらべがある」と書いている(岩波新書『女性俳句の世界』)。すらりとした姿のよい句だ。1929年(昭和四年)の作、久女三十九歳。久女にかぎらず、当時の主婦は、日常的にこうした夕景のなかに身を置いただろう。ことさらに人に告げるべき情景でもないが、それを久女がこのように詠んだとき、昭和初期の平凡な夕景は、美しくも匂やかに後世に残されることになった。むろん久女の手柄ではあるが、その前に、俳句の手柄だと言うべきか。女にせよ男にせよ、かりに同じような夕顔の情景に立ちあったとしても、もはや当代では無理な作句だろう。現代の夕刻は、滅多に人をたたずませてはくれないからである。『杉田久女句集』(1951)所収。(清水哲男)


July 2072000

 登山杖どちらの店のものなるや

                           森田 峠

名な山の登山口には、山の用品や弁当や土産物などを売る店がひしめいている。東京で言えば、高尾山のようなところにも、そんな店が何軒か庇をつらねている。言われてみると、なるほど、店の外に出して売られている杖は、必ずどちらかに雪崩れていて、どちらの店のものか、買う身としては困惑する。店の人にはすぐわかるのだろうが、あれは親切な置き方じゃない。「峠」という名の俳人だって(笑)、戸惑うくらいなのだから……。私は山の中の育ちだから、まさか高尾山程度の山では、杖は求めない。あんな山にケーブルカーまで走らせているのは、どういう了見からなのか。買ったのは、二度の富士登山のときくらいだ。富士に「二度登る馬鹿」と言われるが、二度とも雪崩れているなかから買った。といって、重装備で行く「登山」の経験はない。かつての山の子としては、せっかく平地で暮らしているのに、何を好んで険しい山に登るのかがわからなかった。「娘さんよく聞けよ、山男にゃ惚れるなよ」など、つまらない見えっ張りの都会男の歌だと思っていた。いまでは少し考えを改めたけれど、なけなしの体力を消耗してまで山に登ろうとは思わない。もう二度と、掲句のような場面に遭遇することもないだろう。ちなみに、アメリカの有名なスポーツ誌「Sports Illustrated」の創刊号の表紙は「登山」シーンだったという。百年ほど前のこと。ついでに、日本のまあまあ有名な「Number」のそれは「重量挙げ」だった。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


July 2172000

 女等昼寝ネオンの骨に蝉が鳴く

                           ねじめ正也

者は東京・高円寺で乾物店をいとなんでいた。店は常時開けてあるので、みなでいっせいに昼寝というわけにはいかない。妻や母などの「女等」が昼寝をしている間の店番だ。それでなくとも人通りの少ない炎天下、客の来そうな気配もないけれど……。所在なくしていると、ヤケに近くで蝉が鳴きはじめた。目でたどっていくと、ネオンを汲んだ「骨」にとまって鳴いている。いかにも暑苦しげな真昼の「町」の様子が、彷彿としてくる。作者の立場もあるが、炎天にさらされた「町」の情景を、店の中から詠んだ句は珍しいのではなかろうか。「ネオンの骨」には、うっとうしくも確かな説得力がある。句歴の長い人だが、句集は晩年に一冊しかない。子息のねじめ正一の新著というか母堂との共著である『二十三年介護』(新潮社)を読むと、そのあたりの事情がはっきりする。そろそろ句集をと人がすすめると、作者はいつも「そんなもん出せるか」と怒っていたそうだ。たった一冊の句集は、予断を許さぬ病床にあった父への、子供たちからのプレゼントだった。活字になっていないものも含めると、句稿は段ボール三箱分もあったという。『蝿取リボン』(1991・書肆山田)所収。(清水哲男)


July 2272000

 川上に北のさびしさ閑古鳥

                           岡本 眸

古鳥(かんこどり)は郭公(かっこう)の別称。「かっこ鳥」とも。初夏から明るい野山で鳴いているが、どこか哀愁を誘うような鳴き声で親しまれている。「岩手行四句」のうちの一句だから、川は北上川だ。「川上に北」と舌頭に転がせば、おのずから「北上川」に定まる仕掛けになっている。こんなところにも、俳句ならではの楽しさがある。そして「北のさびしさ」とは、渋民村(現在の岩手郡玉山村大字渋民)の石川啄木に思いを馳せての感傷だろう。もちろん「やはらかに柳あをめる/北上の岸辺目に見ゆ/泣けとごとくに」の一首も、感傷の底に流れている。芭蕉に「うき我をさびしがらせよかんこどり」があるように、このときの閑古鳥の鳴き声は、いやが上にも作者の感傷の度合いを高めたのである。澄み切った青空に入道雲が湧き、川面はあくまでも清冽に明るく流れ、寂しげな閑古鳥の声が聞こえてくる。心身ともにとろけるような感傷に浸るのも、また楽し。旅情を誘う好句だ。私はこの五月に出かけてきたばかりだが、また北上川を見に行きたくなった。今日も、しきりにカッコーと鳴いているだろう。『矢文』(1990)所収。(清水哲男)


July 2372000

 友も老いぬ祭ばやしを背に歩み

                           木下夕爾

に「祭」というと、昔は京都の葵祭(賀茂祭)を指したが、現在では各地の夏祭の総称である。この句、句会ではある程度の支持票を集めそうだが、必ず指摘されるのは「作りすぎ」「通俗的」な点だろう。「『友』って、まさかオレのことじゃねえだろうな」などのチャチャまじりに……。以前にも書いたことだが、抒情詩人であった木下夕爾の句には、どこか情に溺れる弱さがつきまとう。俳句的な切り上げがピリッとしない。その点は大いに不満だが、掲句には一見通俗的にしか表現できない必然も感じられて、採り上げてみた。二人は、祭ばやしのほうへと急ぐ人波にさからうように、逆方向へと歩いている。だから、なかなか並んでは歩けないのだ。で、友人の背後について歩くうちに、ふと彼の「背」に目がとまり、はっとした。同時に、その「背」の老いに、みずからの老いが照り返されている。もとより、その前に通俗的な句意があって、若き日には祭好きだった「友」が「いまさら祭なんかに浮かれていられるか」と言わんばかりに、黙々と歩いている姿がある。すらりと読み下せば、そういうふうにしか読めない。すらりと読んだときの「背」は比喩的なそれだ。その「背」に、私は具体を読んでしまった。だから、捨てられなかった。私の年齢が、そうさせた。成瀬櫻桃子編『菜の花集』(1994)所収。(清水哲男)


July 2472000

 盗品にあらずよ買へや陶まくら

                           西野文代

まくらは「陶枕(とうちん)」。中国や韓国から輸入され、ひやりと冷たく、昼寝には絶好の枕だ。縁日の一齣だろう。香具師(やし)が熱弁をふるって、陶まくらを売っている。破格の安さをいぶかる客に、盗んできたわけじゃないよと笑わせている。香具師の口上の定番ではあるが、何度聞かされても楽しい。香具師の言葉だけで、縁日気分を盛り上げた句だ。といって、買う気持ちもないのだけれど……。盗品の「とう」と陶まくらの「とう」との響きあいも愉快。それにしても、縁日では不思議なものを売っている。見ていると、必ずそれを買う人もいる。昔、その筋の人に聞かされた話によると、最初に買う何人かは、たいていが「サクラ」だそうな。「サクラ」の見分け方も教えてくれた。買う客の靴を見ろ。それだけである。たとえば、どのように貧しそうなナリをしていても、どういうわけか靴だけはピカピカだったりするのだという。足下を見られないように、足下だけはやつさないというのが、この種の業界に生きる人たちの鉄則だからだと、彼は言った。男も女も。以来、縁日での客の足下を見る癖がついてしまい、なるほどと思われる場面に何度か出くわした(ような気がした)。最近の縁日は、こうした業界の人たちをオミットするところが多い。明るいインチキの楽しさがなくなった寂しさ。『おはいりやして』(1998)所収。(清水哲男)


July 2572000

 寺の子の大きな盥浮いて来い

                           甲斐遊糸

濯用の盥(たらい)は、家庭の規模を表現した。家族の人数や客の多寡で、盥の大きさはおのずから定まった。鍋釜や飯櫃の大きさも同様だ。寺の盥が図抜けて大きいのも、うなずける。そんな盥を境内の木陰に出してもらって、幼い寺の子がひとりで遊んでいる。「浮いて来い」は浮き人形のことで、夏の季語。人形や船、金魚などをブリキやセルロイドで作り、水中に沈めては浮いてくるのを楽しんだ。ごく素朴な玩具だが、江戸期には相当に凝ったもの(人形に花火を持たせて走らせるものなど)もあったようだ。作者に特別な仏心があるわけではないと思うが、このシーンをつかまえたときの慈顔が感じられる。将来は僧侶として立つであろう寺の子の無心が、作者の慈顔を引きだし、掲句を引きだしたと言ってもよいだろう。このとき「浮いて来い」は、作者の寺の子の未来に寄せる応援の言葉でもある。盥で思い出したが、京都での学生時代の下宿先では、当然のことながらその家の盥を使わせてもらい、洗濯をしていた。ある日、何気なく盥の裏を見たら「昭和十三年二月購入」と墨書きしてあった。それはそのまま、私の生まれ年であり生まれ月だった。『月光』(2000)所収。(清水哲男)


July 2672000

 今生の汗が消えゆくお母さん

                           古賀まり子

の死にゆく様子を「今生の汗が消えゆく」ととらえた感覚には、鬼気迫るものがある。鍛練を重ねた俳人ならではの「業(ごう)」のようなものすらを感じさせられた。生理的物理的には当たり前の現象ではあるが、血を分けた母親の臨終に際して、誰もがこのように詠めるものではないだろう。この毅然とした客観性があるからこそ、下五の「お母さん」という肉声に万感の思いが籠もる。表面的な句のかたちに乱れはないけれど、内実的には大いなる破調を抱え込んだ句だ。作者には「紅梅や病臥に果つる二十代」に見られる若き日の長い闘病体験があり、また「日焼まだ残りて若き人夫死す」がある。みずからの死と隣り合わせ、また他人の死に近かった生活のなかでの俳句修業(秋桜子門)。掲句は、その積み上げの頂点に立っている。この場合に「鋭く」と言うのが失礼だとしたら、「哀しくも」立っている……。「お母さん」の呼びかけが、これほどまでに悲痛に響く俳句を、少なくとも私は他に知らない。「汗」という平凡な季語を、このように人の死と結びつけた例も。『竪琴』(1981)所収。(清水哲男)


July 2772000

 運河悲し鉄道草の花盛り

                           川端茅舎

道草(てつどうぐさ)は、北アメリカ原産の雑草だ。日本名で正式には「ヒメムカシヨモギ」と言う。明治期に外国から渡来したので「明治草」「御一新草」とも。日本中のいたるところに生えており、鉄道沿いによく見られるので、この名がついたようだ。ゆうに子供の背丈くらいはあり、小さくて寂しい緑白色の花をつける。この花が群生しているだけで「荒涼」の感を受けるが、掲句のように運河沿いにどこまでも「花盛り」となると、もっとその感は深いだろう。誰も「花盛り」など言わない花だから、なおさらに荒涼感が増幅される。毎年の記憶として、とにかく暑い時期の花だと思っていて、すっかり花期は真夏だと信じ込んでいたけれど、調べてみたら秋の季語だった。といっても、立秋過ぎの残暑厳しいころの花として分類されているようだが……。ところで、調べているうちに「ヒメムカシヨモギ」と詠んだ句に遭遇した。飯田龍太の「ヒメムカシヨモギの影が子の墓に」である。「子の墓」ゆえに、知りつつも「鉄道草」とは詠まなかった親心。生きていれば「ヒメムカシヨモギ」くらいの背丈にはなっていたろうに、いまとなっては「影」ですらないのである。青柳志解樹編『俳句の花・下巻』(1997・創元社)所収。(清水哲男)


July 2872000

 にごり江を鎖す水泡や雲の峰

                           芝不器男

がった説に、「雲の峰」は陶淵明の詩句にある「夏雲多奇峯」に発したと言う。そんなことはないだろう。わざわざ外国人に教えられなくても、巨大な積乱雲を山の峯に見立てるなどは幼児にだってできる。教養の範疇に入る比喩じゃない。ときに学者は、おのれの教養に足下をすくわれる。掲句の「鎖す」は「とざす」、「水泡」は「みなわ」と読む。入江には流れてきた芥の類がたまっていて、腐乱物の発生するガスによる「水泡」がぶつぶつといくつも浮いている。茶色っぽくてきたならしい水の泡たち。見ているだけで暑苦しいが、空にはいくつもの「雲の峰」が立っており、その影をまた「にごり江」がうつしている。暑さも暑し、炎暑もここに極まったような情景だ。江戸期より「雲の峰」の作例には、積乱雲のエネルギーを讚える句が多いが、掲句は逆で、エネルギーに圧倒されている弱い心を詠んでいる。「にごり江」に、みずからの鬱屈した思いを投影しているのだろうか。でないと、わざわざ「にごり江」に見入ったりはしないだろう。地味な写生句だが、写生が写生を乗り越えていく力を感じさせられる一句だ。飴山實編『麦車』(1992)所収。(清水哲男)


July 2972000

 いふまじき言葉を胸に端居かな

                           星野立子

まりに暑いと身体もだるくなるが、それに伴って心も弱くなりがちだ。隙(すき)もできる。こういうときには「いふまじき言葉」も、ポロリと吐き出しそうになったりする。つい、家人にアタりたくなってしまう。でも、それを言ってはおしまいなのだ。そこで作者は涼むふりをして、家人のいない縁側へと移動した。吐き出しそうになった言葉を、からくも胸に閉じこめて……。しかし、胸に秘めた言葉が言葉であるだけに、いっこうに暑さはおさまらない。「端居(はしい)」は、家内の暑さを避けて、風通しのよい縁先などでくつろぐこと。日常的にはお目にかからない言葉だが、俳句ではいまでも普通に使われている。短い詩型だけに、縁側のある家が少なくなった現代でも重宝されているのだろう。縁側などなくても家の端に窓辺はあるから、もっぱら窓辺に倚る意味での使用例が多い。たとえば星野椿に「端居して窓一杯の山を見る」と、明確に窓辺で詠んだ句がある。星野椿は立子の娘(したがって、虚子の孫にあたる俳人)。すなわち、母の時代の「端居」は縁側で、娘の時代のそれは窓辺でというわけだ。時代は変わる。『笹目』(1950)所収。(清水哲男)


July 3072000

 百日草芯よごれたり凡詩人

                           草間時彦

日草(ひゃくにちそう)はメキシコ原産。その名のとおりに、花期が長い。小学生の時に名前を教わって、なるほどねと感嘆した覚えがある。とにかく、暑い間はずうっと咲いている。原色に近い花なので、いつも埃ッぽい感じがする。べつに花の責任ではないけれど、あまりに生命力が強すぎるのも、うとましく思われる要素の一つとなる。そのうとましさを、みずからの非才になぞらえたのが掲句だ。一読して自嘲句とわかるが、長い間詩を書いてきた私などには切なすぎる。どんなに心を沈め集中しようとしても、詩心が澄んでくれないときがある。心の「芯」のよごれが振り払えないのだ。平たく言うと、アタリの感覚に至らないのである。こういうときには焦りますね。そんな作者の目の先に、うっとうしくも百日草が元気に咲いている。百日草には気の毒ながら、思わずもなぞらえたくなる発想は、よくわかる気がします。みずからを「凡詩人」と言い捨てて何かが解決するのならばともかく、何もはじまらないのだし、何も終わらない。わかっちゃいるけど、言わざるをえなかった。身も心も暑苦しい夏のひととき……。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


July 3172000

 今植し竹に客あり夕すゝみ

                           佐久間柳居

柳居
ーデニング(園芸)隆盛の折りから、この江戸期の作者の気持ちに同感という読者も多いことだろう。庭の一角にあしらうべく竹を植え、よい景色になった。ひとり満足して眺めていると、折りよくも客がやってきた。こういうときには、誰かに見てもらいたい気持ちが起きる。「どうですかね」「ほお、見事なもんですな」といったやりとり。涼しい風も吹いてきて、一汗かいた肌に心地よい。素直な喜びの情が、読者にも涼やかな風を送ってくる。掲句は、1765年(明和二年)に京都で刊行された『俳諧百一集』に載っている。書名は「百人一句集」の意。芭蕉からはじめて麦林(乙由)で終わる百人を選び、それぞれに一句と肖像を配した木版本だ。句には編者である康工の寸評が付されており、なんだか当欄みたいな趣き(笑)。「江戸俳人名鑑」というところである。以前から本書を手元で見たいと思っていたが、一昨日の句会で江東芭蕉記念館に出かけた際に、復刻版を入手することができた。ちなみに、掲句に付された寸評は「人にも見せたきをりから客来て 心と共に涼しく興セし風情尤も優長也」というものだ。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます