朝刊の来ない日。物足りない気はするが、胸に突き刺さる記事を読まずにすむのはありがたいことだ。




2000ソスN7ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1072000

 夏河を越すうれしさよ手に草履

                           与謝蕪村

語は「夏の川」。夏の川は、梅雨時から盛夏、晩夏と季のうつろいにしたがって、さまざまな表情を見せる。蕪村は「河」と書いているが、句のそれは丹後(現在の京都府)は与謝地方の小川だったことが知れている。川底の小石までがくっきりと見える清らかな真夏の小川だ。深さは、せいぜいが膝頭くらいまでか。草履(ぞうり)を手に持ち、裾をからげてわたっていく「うれしさ」が、ストレートに伝わってくる。作者はこのとき、すっかり子供時代にかえって、うきうきしているようだ。べつに、わたる先に用事があったわけじゃない。思いついて「たわむれ」に川に入ったということ。そのことは「手に草履」が示していて、「たわむれ」ではなかったら、あらかじめ草履ではなく、はいたままでわたれる草鞋(わらじ)を用意していたはずだからだ。わざわざ「手に草履」と書いたのは、あくまでも私の行為は「たわむれ」なのですよと、同時代の読者にことわっているのである。同時に「ウラヤマシイデショ」というメッセージも、ちょっぴり含んでいるような……。「企む俳人」蕪村にしては、珍しくも稚気そのままを述べた句だと「うれしく」なった。(清水哲男)


July 0972000

 日輪を隠す日光日日草

                           池田澄子

ンカン照り。日輪のありどころがわからぬくらいに、日差しが強いのである。風景が白っぽく見えている。天の「日輪を隠す」のが、ほかならぬ太陽が発した「日光」であるところが面白い。鋭い観察だ。そして地上の花壇では「日日草(にちにちそう)」が咲き誇り、暑さの感覚をいやがうえにも盛り上げている。武者小路実篤の「天に星、地に花」の盛夏白昼版とでも言うべきか(笑)。漢字の「日」を四つ並べて見せたのも効果的で、一瞬どの「日」が句のなかのどこに定まっているのかわからないあたりにも、暑いさなかに特有の軽い目まい感がある。「日日草」には「そのひぐさ」という異名もあるように、日々新しく咲きかわる。暑さなどものともせずに、強い生命力を謳歌する。それも道理で、西インドはマダガスカル島原産だそうな。よく見れば、一つ一つは可憐な花だけど、よく見る気にもなれない季節に咲くので、ちょっと気の毒のような気もする。濃緑色の葉につやがあるのも、暑苦しい感じで損をしている。『ゆく船』(2000)所収。(清水哲男)


July 0872000

 あんぱんを落として見るや夏の土

                           永田耕衣

意味といえば無意味。ナンセンスの極地。どこがよいのかと問われても、答えに窮する。だが、この句には確実に読者をホッとさせる力がある。それは、どなたも否定できないだろう。耕衣は第一句集『加古』(1934)の自跋で、「一句を得て空漠、二句を得て猶空漠たるが、われらの望むところ」と書いている。出発時からして、意味や知恵を俳句に求めなかったということだろう。さらに敷衍して考えれば、それでなくとも人は世俗的な意味や知恵のなかで生きてゆかねばならぬのに、さらに俳句で屋上屋を重ねるなど愚の骨頂ということのようだ。耕衣は終生、このニヒリズムを手放さなかった。しかし、空漠を生みだすのは、そう簡単なことではない。デタラメでは駄目なのだ。無意味は、常に意味を意識する宿命にあるからである。掲句にそくしていえば、キーは「落として見るや」だ。一つの意味は「試みに落としてみる」であり、もう一つの意味はうかつにも「落として」しまい、それから夏の土を「見る」だろう。この二つの意味が合体したときに、中七句は限りなく無意味に近い意味に転ずる。両方の意味が一瞬同時に読者の脳裏に明滅し、その効果で世俗の意味ははぎ取られてしまう。だから、おのずからホッとする……。「夏の土」の必然性は、他の季節の湿った土だと、乾いた空漠感を提出できないところにある。「あんぱん」がべちゃっとした土に落ちると、そのイメージに気を取られてしまい、中七が利かなくなるからだ。でも、この解釈には異論が出そうだなア(笑)。『人生』(1988)所収。(清水哲男)




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