リサイクルできるプラスチック容器を出す日を設けた武蔵野市で混乱。できない物も一緒に大量に出て。




2000蟷エ7譛11譌・縺ョ句(前日までの二句を含む)

July 1172000

 針葉のひかり鋭くソーダ水

                           藤木清子

葉とは、この場合は松葉だろうか。たとえば、台風一過の昼さがり。澄んだ大気のなかに日が射してきて、庭の松葉の一本一本がくっきりと見えるほどに鮮やかだ。そして、テーブルの上には清涼感に満ちたソーダ水。その発泡も鮮やかである。すべてのものの輪郭がくっきりとしている情景に、作者の心も澄み切っている。生きる活力が湧いてくるようだ。作者には同じような心情の「蒼穹に心触れつつすだれ吊る」などがあるが、他方では「麻雀に過去も未来もなきおのれ」などの鬱屈した句も多い。1935年(昭和十年)に創刊された日野草城の「旗艦」に出句。新興俳句の最初の女性として将来を嘱望されたが、わずか四年にも満たない活動の後に、「ひとすじに生きて目標うしなへり」を残し、忽然として姿を消してしまった。現在に至るも生年も出身地も不明、生死も不明のままだ。最後の句から掲句を透視してみると、人生にきっちり折り目をつけないと気のすまぬ性格だったのかもしれない。なお藤木清子については、中村苑子がもう一人の幻の女流俳人・鈴木しづ子(当歳時記既出)と並べて、発売中の「俳句研究」(2000年7月号)に愛惜の思いを込めて書いている。『女流俳句集成』(1999・立風書房)所載。(清水哲男)


July 1072000

 夏河を越すうれしさよ手に草履

                           与謝蕪村

語は「夏の川」。夏の川は、梅雨時から盛夏、晩夏と季のうつろいにしたがって、さまざまな表情を見せる。蕪村は「河」と書いているが、句のそれは丹後(現在の京都府)は与謝地方の小川だったことが知れている。川底の小石までがくっきりと見える清らかな真夏の小川だ。深さは、せいぜいが膝頭くらいまでか。草履(ぞうり)を手に持ち、裾をからげてわたっていく「うれしさ」が、ストレートに伝わってくる。作者はこのとき、すっかり子供時代にかえって、うきうきしているようだ。べつに、わたる先に用事があったわけじゃない。思いついて「たわむれ」に川に入ったということ。そのことは「手に草履」が示していて、「たわむれ」ではなかったら、あらかじめ草履ではなく、はいたままでわたれる草鞋(わらじ)を用意していたはずだからだ。わざわざ「手に草履」と書いたのは、あくまでも私の行為は「たわむれ」なのですよと、同時代の読者にことわっているのである。同時に「ウラヤマシイデショ」というメッセージも、ちょっぴり含んでいるような……。「企む俳人」蕪村にしては、珍しくも稚気そのままを述べた句だと「うれしく」なった。(清水哲男)


July 0972000

 日輪を隠す日光日日草

                           池田澄子

ンカン照り。日輪のありどころがわからぬくらいに、日差しが強いのである。風景が白っぽく見えている。天の「日輪を隠す」のが、ほかならぬ太陽が発した「日光」であるところが面白い。鋭い観察だ。そして地上の花壇では「日日草(にちにちそう)」が咲き誇り、暑さの感覚をいやがうえにも盛り上げている。武者小路実篤の「天に星、地に花」の盛夏白昼版とでも言うべきか(笑)。漢字の「日」を四つ並べて見せたのも効果的で、一瞬どの「日」が句のなかのどこに定まっているのかわからないあたりにも、暑いさなかに特有の軽い目まい感がある。「日日草」には「そのひぐさ」という異名もあるように、日々新しく咲きかわる。暑さなどものともせずに、強い生命力を謳歌する。それも道理で、西インドはマダガスカル島原産だそうな。よく見れば、一つ一つは可憐な花だけど、よく見る気にもなれない季節に咲くので、ちょっと気の毒のような気もする。濃緑色の葉につやがあるのも、暑苦しい感じで損をしている。『ゆく船』(2000)所収。(清水哲男)




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