近所の蝉は昼間はほとんど鳴かずに暗くなると盛んに鳴く。勤めにでも出ているのかな。なぜだろう。




2000蟷エ7譛15譌・縺ョ句(前日までの二句を含む)

July 1572000

 手花火の柳が好きでそれつきり

                           恩田侑布子

い片恋の思い出だろう。「柳が好きで」には、主語が二つある。そうでないと、句がきちんと成立しない。その人と手花火で遊ぶ機会があって、自分が好きな「柳」を、その人も好きなことを知ったのだ。もちろん心は弾んだが、しかし、その後は親しくつきあうこともなく、手花火の夜の「関係」は「それつきり」になってしまった。「手花火の柳」を見るたびに、ちらりとその夜のことを思い出す。でも、思い出すこともまた「それつきり」なのである。「手花火の柳」が束の間のうちにしだれて消えていくように、句も束の間の記憶を明滅させて、あっけなく「それつきり」と言いさして終わっている。このときに、もはや作者の心は濡れてはいない。むしろ、乾いている。絶妙の俳句的言語配置による効果とでも言うべきか。考えてみれば、ある程度の年齢を重ねた人の人生履歴は、まさに「それつきり」の関係でいっぱいだ。しかりしこうして、掲句の良さが読み取れない読者が存在するとすれば、それは読解力の欠如によるものではないだろう。読み取るには、いささか若すぎるというだけのことにすぎない。『イワンの馬鹿の恋』(2000)所収。(清水哲男)


July 1472000

 蛇搏ちし棒が昨日も今日もある

                           北野平八

に遭遇して、そこらへんに立て掛けてあった棒切れを引っ掴み、夢中で搏(う)った。その棒が、昨日も今日も同じところに立て掛けられている。目にするたびに、蛇を搏った感触がよみがえってきて、嫌な気分がする。捨ててしまえばよいものを、捨てられないわけでもあるのだろう。私も、何度か蛇を搏った経験があるので、この句の生臭さはよくわかる。マムシとハブ以外の蛇は無毒だというが、ニワトリを飼っている農家にとっては天敵だった。こいつに侵入されたが最後、何個でも呑み込まれてしまう。大切な現金収入の道が、その分だけ断たれてしまうのだ。だから、搏った。しかし生活のためとはいえ、殺生は嫌なものだ。いつまでも感触が手に残り、いまでも思い出す。こうやって書いているだけで、背中をつめたいものが走る。掲句は、そういうことを一息で、しかも静かに控えめに書き留めていて、さすがだと思わせる。北野平八は、いつも小さな声で静かに詠み、それでいて深く胸底にひびくようなことを言った。『北野平八句集』(1987)所収。(清水哲男)


July 1372000

 藺ざぶとん難しき字は拡大し

                           波多野爽波

は「い」と読み、「藺ざぶとん」は藺草(いぐさ)で織った夏用の座布団のこと。よく見かける座布団で、四角いものも丸いものもある。なるほど「藺」という字は難しい。何気なく尻に敷いている「藺ざぶとん」だが、ふと「藺」というややこしい漢字が気になったので、調べてみたのだろう。でも、辞書の文字が小さくて、よく見えない。早速、天眼鏡で拡大してみて、ははあんとうなずいている。最近は、いつもこうだ。だいぶ視力が衰えてきたなア。そんな思いを、深刻めかさずに詠んでいる。テーマが「藺ざぶとん」そのものにはなく、名前の一文字であるところから、とぼけた味わいが浮かんでくるのだ。多くの読者にとっては、どうでもよいようなことであり、もとより爽波もそんなことは承知の上で作っている。これぞ、人をクッた爽波流。そういえば辻征夫(俳号・貨物船)にも似たような才質があって、たとえば「つという雨ゆという雨ぽつりぽつり」であるが、上手いのか下手なのか、さっぱりわからない。でも、確実にとぼけた良い味は出せている。『一筆』(1990)所収。(清水哲男)




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