昨日の読売にOutlookの安全性に重大な欠陥ありと。以前から囁かれていたが、なぜ対応しないのか。




2000ソスN7ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2772000

 運河悲し鉄道草の花盛り

                           川端茅舎

道草(てつどうぐさ)は、北アメリカ原産の雑草だ。日本名で正式には「ヒメムカシヨモギ」と言う。明治期に外国から渡来したので「明治草」「御一新草」とも。日本中のいたるところに生えており、鉄道沿いによく見られるので、この名がついたようだ。ゆうに子供の背丈くらいはあり、小さくて寂しい緑白色の花をつける。この花が群生しているだけで「荒涼」の感を受けるが、掲句のように運河沿いにどこまでも「花盛り」となると、もっとその感は深いだろう。誰も「花盛り」など言わない花だから、なおさらに荒涼感が増幅される。毎年の記憶として、とにかく暑い時期の花だと思っていて、すっかり花期は真夏だと信じ込んでいたけれど、調べてみたら秋の季語だった。といっても、立秋過ぎの残暑厳しいころの花として分類されているようだが……。ところで、調べているうちに「ヒメムカシヨモギ」と詠んだ句に遭遇した。飯田龍太の「ヒメムカシヨモギの影が子の墓に」である。「子の墓」ゆえに、知りつつも「鉄道草」とは詠まなかった親心。生きていれば「ヒメムカシヨモギ」くらいの背丈にはなっていたろうに、いまとなっては「影」ですらないのである。青柳志解樹編『俳句の花・下巻』(1997・創元社)所収。(清水哲男)


July 2672000

 今生の汗が消えゆくお母さん

                           古賀まり子

の死にゆく様子を「今生の汗が消えゆく」ととらえた感覚には、鬼気迫るものがある。鍛練を重ねた俳人ならではの「業(ごう)」のようなものすらを感じさせられた。生理的物理的には当たり前の現象ではあるが、血を分けた母親の臨終に際して、誰もがこのように詠めるものではないだろう。この毅然とした客観性があるからこそ、下五の「お母さん」という肉声に万感の思いが籠もる。表面的な句のかたちに乱れはないけれど、内実的には大いなる破調を抱え込んだ句だ。作者には「紅梅や病臥に果つる二十代」に見られる若き日の長い闘病体験があり、また「日焼まだ残りて若き人夫死す」がある。みずからの死と隣り合わせ、また他人の死に近かった生活のなかでの俳句修業(秋桜子門)。掲句は、その積み上げの頂点に立っている。この場合に「鋭く」と言うのが失礼だとしたら、「哀しくも」立っている……。「お母さん」の呼びかけが、これほどまでに悲痛に響く俳句を、少なくとも私は他に知らない。「汗」という平凡な季語を、このように人の死と結びつけた例も。『竪琴』(1981)所収。(清水哲男)


July 2572000

 寺の子の大きな盥浮いて来い

                           甲斐遊糸

濯用の盥(たらい)は、家庭の規模を表現した。家族の人数や客の多寡で、盥の大きさはおのずから定まった。鍋釜や飯櫃の大きさも同様だ。寺の盥が図抜けて大きいのも、うなずける。そんな盥を境内の木陰に出してもらって、幼い寺の子がひとりで遊んでいる。「浮いて来い」は浮き人形のことで、夏の季語。人形や船、金魚などをブリキやセルロイドで作り、水中に沈めては浮いてくるのを楽しんだ。ごく素朴な玩具だが、江戸期には相当に凝ったもの(人形に花火を持たせて走らせるものなど)もあったようだ。作者に特別な仏心があるわけではないと思うが、このシーンをつかまえたときの慈顔が感じられる。将来は僧侶として立つであろう寺の子の無心が、作者の慈顔を引きだし、掲句を引きだしたと言ってもよいだろう。このとき「浮いて来い」は、作者の寺の子の未来に寄せる応援の言葉でもある。盥で思い出したが、京都での学生時代の下宿先では、当然のことながらその家の盥を使わせてもらい、洗濯をしていた。ある日、何気なく盥の裏を見たら「昭和十三年二月購入」と墨書きしてあった。それはそのまま、私の生まれ年であり生まれ月だった。『月光』(2000)所収。(清水哲男)




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