July 302000
百日草芯よごれたり凡詩人
草間時彦
百日草(ひゃくにちそう)はメキシコ原産。その名のとおりに、花期が長い。小学生の時に名前を教わって、なるほどねと感嘆した覚えがある。とにかく、暑い間はずうっと咲いている。原色に近い花なので、いつも埃ッぽい感じがする。べつに花の責任ではないけれど、あまりに生命力が強すぎるのも、うとましく思われる要素の一つとなる。そのうとましさを、みずからの非才になぞらえたのが掲句だ。一読して自嘲句とわかるが、長い間詩を書いてきた私などには切なすぎる。どんなに心を沈め集中しようとしても、詩心が澄んでくれないときがある。心の「芯」のよごれが振り払えないのだ。平たく言うと、アタリの感覚に至らないのである。こういうときには焦りますね。そんな作者の目の先に、うっとうしくも百日草が元気に咲いている。百日草には気の毒ながら、思わずもなぞらえたくなる発想は、よくわかる気がします。みずからを「凡詩人」と言い捨てて何かが解決するのならばともかく、何もはじまらないのだし、何も終わらない。わかっちゃいるけど、言わざるをえなかった。身も心も暑苦しい夏のひととき……。『中年』(1965)所収。(清水哲男)
August 072002
百日草がんこにがんこに住んでいる
坪内稔典
季語は「百日草」で夏。メキシコ原産。その名のとおり、うんざりするほどに花期が長い。栽培も容易で生育も早く、しかもしぶといときているから、江戸期より園芸用として広まったのもうなずける。掲句は花の観賞ではなく、そうした生態のみに着目して「がんこにがんこに」と繰り返した。句の妙は「住んでいる」の切り返しにある。読み下していく途中、読者は最初の「がんこに」のあたりで、なんとなく「咲いている」などと下五を予想してしまう。次の「がんこに」で、ますますそのイメージが強固になる。そこまで仕組んでおいてから、作者はさっと梯子を外すようにして「住んでいる」と切り換えた。ここで一瞬、読者に句の主体を見失わせるわけだ。すなわち「がんこにがんこに」は百日草の生態にもかかっているが、咲かせている家の人の生き方にこそ大きな比重がかけられていたのだった。やられた。やられたのだけれど、しかし、悪い気はしない。そこで、もう一度読んでみると、なるほどと納得がいく。地味ながら頑固一徹に生きている主人公の姿すら、思い浮かべられるようだ。こういうことにかけては、やはり当代一流の作者なのである。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)
June 212005
ああ今日が百日草の一日目
櫂未知子
季語は「百日草」で夏。夏の暑い盛りを咲き通す、憎らしいくらいに丈夫な花だ。メキシコ原産と聞けばうなずけるが、それにしても……。もっとも、名前だけなら「千日草(「千日紅」とも)」というはるかに凄いのがあって、こちらは枯れても花の色が変わらないというから、なかなかにしぶとい。むろん千日も咲いているわけではなく、両者の花期はほぼ同じである。ところで作者は、かなりの夏好きだとお見受けした。咲きはじめた百日草を見つけて、「今日が一日目」だと思いなした気持ちには、すなわちこれからの長い夏への期待が込められている。まだ「一日目」だ、先は長い。そう思って、わくわくしている弾んだ気持ちがよく伝わってくる。似たような発想の句としては、松本たかしの「これよりの百日草の花一つ」を思い出す。だが、こちらの句には櫂句のようなわくわくぶりは感じられない。どことなく「これよりの」暑い季節を疎んでいるかのような鬱積感がある。静かな詠みぶりに、静かな不機嫌が内包されている。作者が病弱だったという先入観が働くからかもしれないのだが、同じ花を見ても、かくのごとくに截然と感情が分かれるのも人間の面白さだろう。二つの句のどちらを好むかで、読者のこの夏の健康診断ができそうだ。セレクション俳人06『櫂未知子集』(2003・邑書林)所収。(清水哲男)
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