残暑お見舞い申し上げます。と、今日からの挨拶。坂を転がる石のように季節はどんどん過ぎていく。




2000ソスN8ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0782000

 川半ばまで立秋の山の影

                           桂 信子

秋。ちなみに、今日の東京地方の日の出時刻は4時53分だ。だんだん、日の出が遅くなってきた。掲句では、昼間の太陽の高度が低くなってきたところに、秋を感じている。立秋と聞き、そう言えばいつの間にか山影が伸びてきたなと納得している。視覚的な秋の確認だ。対して、聴覚的な秋の確認(とはいっても気配程度だが)で有名なのは、藤原敏行の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風のおとにぞおどろかれぬる」だろう。『古今集』の「秋歌」巻頭に据えられたこの一首は、今日にいたるまで、日本人の季節感覚に影響を与えつづけている。俳句作品だけに限っても、それこそおどろくほどに、この歌の影響下にある句が多い。「秋立つや何におどろく陰陽師」(蕪村)等々。したがって、掲句の桂信子はあえて聴覚的な気配を外し、目にも「さやかに」見える立秋を詠んでみせたということか。いつまでも「おどろく」でもあるまいにという作者の気概を、私は感じる。ところで、秋で必ず思い出すのはランボーの『地獄の季節』の最後に収められた「ADIEU」という詩。「もう秋か! それにしても俺達は、なにゆえに永遠の太陽を惜しむのか」(正確なな翻訳ではありません。私なりの翻案です)ではじまる作品だ。ここには、いわば反俳句的な詩人の考えが展開されている。日の出が早いの遅いのなどという叙情的季節感を超越し、ひたすらに「聖なる光明をを希求する」(宇佐美斉)若者の気合いが込められている。『新日本大歳時記・秋』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


August 0682000

 魔の六日九日死者ら怯え立つ

                           佐藤鬼房

月「六日」は広島原爆忌、「九日」は長崎原爆忌。原爆の残虐性に対して、これほどまでに怒りと戦慄の情動をこめて告発した句を、他に知らない。死してもなお「魔」の日になると「怯え立つ」……。原爆による死者は、いつまでも安らかには眠れないでいるのだと、作者は言うのである。原爆投下時に、作者はオーストラリア北部のスンバワ島を転戦中だった。敗戦後は捕虜となり、連作「虜愁記」に「生きて食ふ一粒の飯美しき」などがある。だから、原爆忌や敗戦日がめぐってくると、おざなりの弔旗を掲げる気持ちにはなれなくて、心は「死者」と一体となる。弔旗は弔旗でも、句は死者と生者にむかって、永遠に振りまわしつづける万感溢れる「弔旗」なのだ。原爆の日から半年後の早春に、私は夜汽車で広島駅を通過した。小学二年生だったが、「ヒロシマ」というアナウンスに目が覚め、プラットホームや背後の街に目を凝らしたことをはっきりと覚えている。ホームにも街にも灯がほとんどなく、全体はよく見えなかった。大きな駅だという雰囲気は感じられたが、子供心にも「死の街」だと思った。生き残った被爆者の方々の平均年齢は、今年で七十歳を越えたという。『半迦坐』(1988)所収。(清水哲男)


August 0582000

 子の中の愛憎淋し天瓜粉

                           高野素十

上がりの子供に、天瓜粉(てんかふん)をはたいてやっている。いまなら、ベビー・パウダーというところ。鷹羽狩行に「天瓜粉しんじつ吾子は無一物」があって、父親の情愛に満ちたよい句だが、素十はここにとどまらず、さらに先へと踏み込んでいる。こんな小さな吾子にも、すでに自意識の目覚めが起きていて、ときに激しく「愛憎」を示すようになってきた。想像だが、このときに天瓜粉をつけようとした父親に対して、子供がひどく逆らったのかもしれない。私の体験からしても、幼児の「愛憎」は全力で表現されるから、手に負えないときがある。その場はもちろん腹立たしいけれど、少し落ち着いてくると、吾子の「愛憎」表現は我が身のそれに照り返され、こんなふうではこの子もまた、自分と同じように苦労するぞという思いがわいてきた……。さっぱりした天瓜粉のよい香りのなかで、しかし、人は生涯さっぱりとして生きていけるわけではない、と。そのことを、素十は「淋し」と言い止めたのだ。「天瓜粉」は、元来が黄烏瓜(きからすうり)の根を粉末にしたものだった。「天瓜」は烏瓜の異名であり、これを「天花」(雪)にひっかけて「天花粉」とも書く。平井照敏編『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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