自治体も業者も、夏休み向けの家族イベントに熱心なこと。いやだなぁ、健全ムードの押し売りは。




2000ソスN8ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1082000

 土砂降りの映画にあまた岐阜提灯

                           摂津幸彦

阜提灯は、すずやかで美しい。細い骨組に薄い紙を貼り、花鳥草木が色とりどりに描かれている。元来は、夏の軒端などに吊るして涼味を楽しんだもののようだが、いまは盆の仏前にそなえる提灯として知られている。盆提灯とも言う。掲句の「土砂降りの映画」は、映画に大雨が写っているのではないだろう。傷のついたフィルムを映写すると、雨が降っているように見える。このフィルムは相当に古いのか、傷だらけで、土砂降りのように見えるというわけだ。そんな場面に、たくさんの岐阜提灯が写っている。きゃしゃな岐阜提灯だから、こんなに「土砂降り」のなかでは、たちまちにして崩れ散ってしまいそうだ。その無惨を思って、作者は一瞬目をそらしたかもしれない。そんな錯覚を書き留めた句。まったくのフィクションかもしれないけれど、画面の様子は目に見えるようである。そして言外にあるのは、土砂降りであろうが、死者の霊は必ず戻ってくるということだろう。そのためにも、これらの岐阜提灯は、なんとしても守られなければならぬ。と、咄嗟の優しい心情がにじみ出ている。こう詠んだ摂津幸彦も他界してしまった。間もなく旧盆だ。彼を迎える仏前には、どんな盆提灯が優しくそなえられるのだろう。『鹿々集』(1996)所収。(清水哲男)


August 0982000

 ひぐらしに寡婦むらさきの着物縫ふ

                           藤木清子

分のために縫っているのではないだろう。むらさきの着物は派手だから、「寡婦(かふ)」にはそぐわない。他家から注文のあった仕立物に精を出しているうちに、いつしか「ひぐらし」の鳴く夕暮れとなった。働く「寡婦」と「ひぐらし」の取り合わせが、寂寥感を演出する。そしておそらく、この着物の仕立てを注文したのは、作者自身なのだ。推定の根拠は、掲句の少し後に詠まれた「縁談をことはる畳なめらかに」にある。そしてこれまた推定でしかないが、着物を縫っている人は戦争未亡人だと思う。そこに、掲句のポイントがあるのではなかろうか。藤木清子には戦争を詠んだ句が多数あり、「戦死者の寡婦にあらざるはさびし」「戦争と女はべつでありたくなし」などが目につく。みずから戦争に与する意志が明確で、なんと好戦的な女性かと思われるムキもあるだろうが、当時の一般的な戦争に対する心情を代弁しているだけの内容だと読む。ほとんどスローガンなのだ。以前にも書いたけれど、彼女は戦争期に突然筆を折った後、消息すらわからなくなってしまった。戦後、生きのびた多くの俳人が戦争句を捨てたなかで、捨てようにも捨てられなかった彼女の句は、結果として「残ってしまった」のである。『女流俳句集成』(1999)所載。(清水哲男)


August 0882000

 むかし吾を縛りし男の子凌霄花

                           中村苑子

霄花という漢字は、一般的にはこれだけで「のうぜんかずら」あるいは「のうぜん」と読ませる(『広辞苑』など)ようだが、この場合は「のうぜんか」だろう。いまごろの花だ。赤橙色の漏斗状の花を盛んに咲かせる。大きな特徴は、つるを他の木などにからみつかせて、どこまでも執拗に這い登る性質にある。掲句は、この性質に関わっている。その「むかし」、チャンバラごっこか何かの遊びで、たぶんふざけ半分に自分を縛った「男の子(をのこ)」がいた。縛られる側も相手が面白がっていることはわかっているので、さしたる抵抗もせずに縛られてやったのだ。付近では、今を盛りと凌霄花が咲いていたのだろう。ところが、現実に縛られてみると、なんだか気分が違う。遊びだと思っていた気持ちが、すうっと冷えてきて、経験したことのない生々しい恐怖感に直面することになった。縛った男の子も、遊びを忘れたような生臭い顔をしている。二人ともが、縛り縛られたことによる関係が生みだした、思いもよらぬ現実の重さにあわてている。その場にあったのは、お互いの性の目覚めに通じる何かだったはずだ。あのときに執拗に幼い作者の身体にまとわりついた縄の感触を、目の前の凌霄花が思い出させている。性の目覚めはこのように、突然にあらぬ方角からやってきて、抜き難い記憶としておのれにからみつき、離れることがない。『白鳥の歌』(1996)所収。(清水哲男)




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