東京を基点とする高速道路の下りは今日が混雑のピークという予想。気をつけて行ってらっしやい。




2000ソスN8ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1282000

 いつまでも捕手号泣す蜥蜴消え

                           今井 聖

合に敗れたチームの「捕手」が、ベンチ脇の草叢に突っ伏して、声をあげて泣いている。プロテクターやレガーズをつけたままだから、「捕手」と知れる。チームメイトが肩などを叩いてやるが、いつまでも泣きやまない。高校野球の地方予選では、ときおり目にする光景だ。このときに「蜥蜴(とかげ)消え」とは、彼の夏が終わったことを暗示している。「蜥蜴」は夏の季語。でも、なぜ「蜥蜴」なのだろうか。彼が「捕手」だからだと、私は読んだ。「捕手」の目は、ナインのなかで一番地面に近い。グラウンドの片隅にある投球練習場所の近くには、たいてい草叢があるので、そこに出没する「蜥蜴」を、彼はいつも目にしてきたわけだ。他の選手は、草叢に「蜥蜴」がいることさえ知らないだろう。でも、負けてしまったので、この夏にはもう「蜥蜴」を見ることもないのである。したがって、作者は「蜥蜴消え」と押さえた。投手を詠んだ句は散見するが、素材に「捕手」を持ってくる句は少ない。地味なポジションに着目するあたり、作者はよほどの野球好きなのだろうか。「グロウブを頭に乗せて蝉時雨」と、微笑を誘われる句もあるので、相当に熱心な人のようではある。「俳句文芸」(2000年8月号)所載。(清水哲男)


August 1182000

 落ちてゐるのは帰省子の財布なり

                           波多野爽波

敷の隅に財布が落ちている。置いてあるのではなく、落ちている。財布や手帳などは、使い慣れた持ち主にはなんでもないものだが、それ以外の人には異物と写る。作者も異物と認め、ハテナと首をかしげるほどもなく、もちろん気がついた。ひさしぶりに帰省した子供の財布だ。上着を脱いだときに、内ポケットから滑り落ちたのだ。拾ってちらと眺め、高いところに置いてやる。帰省子は、早速の入浴か、疲れて昼寝中か。いずれにしても旅装を解いて、くつろいでいる。掲句は、二つのことを言っている。拾った父親としては、いつの間にかちゃんとした財布を持つまでになった子の成長に感嘆し、子供は財布を落としたことにも気づかないことで、はからずも実家への最高の安堵感を示した……。たった十七文字で「実家」の構造を的確に描き出した腕前は、見事と言うしかない。このような場景なら、それこそどこにでも落ちている。拾い上げられるかどうかは、やはり修練の多寡によるのだろう。帰省といえば、芝不器男に「さきだてる鵞鳥踏まじと帰省かな」という名句がある。この世で最高に安堵できるところは、もう目と鼻の先なのだ。はやる心を抑えながらも、ついつい急ぎ足になってしまう。『一筆』(1990)所収。(清水哲男)


August 1082000

 土砂降りの映画にあまた岐阜提灯

                           摂津幸彦

阜提灯は、すずやかで美しい。細い骨組に薄い紙を貼り、花鳥草木が色とりどりに描かれている。元来は、夏の軒端などに吊るして涼味を楽しんだもののようだが、いまは盆の仏前にそなえる提灯として知られている。盆提灯とも言う。掲句の「土砂降りの映画」は、映画に大雨が写っているのではないだろう。傷のついたフィルムを映写すると、雨が降っているように見える。このフィルムは相当に古いのか、傷だらけで、土砂降りのように見えるというわけだ。そんな場面に、たくさんの岐阜提灯が写っている。きゃしゃな岐阜提灯だから、こんなに「土砂降り」のなかでは、たちまちにして崩れ散ってしまいそうだ。その無惨を思って、作者は一瞬目をそらしたかもしれない。そんな錯覚を書き留めた句。まったくのフィクションかもしれないけれど、画面の様子は目に見えるようである。そして言外にあるのは、土砂降りであろうが、死者の霊は必ず戻ってくるということだろう。そのためにも、これらの岐阜提灯は、なんとしても守られなければならぬ。と、咄嗟の優しい心情がにじみ出ている。こう詠んだ摂津幸彦も他界してしまった。間もなく旧盆だ。彼を迎える仏前には、どんな盆提灯が優しくそなえられるのだろう。『鹿々集』(1996)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます