September 022000
朝顔にうすきゆかりの木槿かな
与謝蕪村
木槿(むくげ)の花盛りの様子は、江戸期蕉門の俳人が的確に描いているとおりに「塀際へつめかけて咲く木槿かな」(荻人)という風情。盛りには、たしかに塀のあたりを圧倒するかの趣がある。とくに紅色の花は、実にはなやかにして、あざやかだ。残暑が厳しいと、暑苦しさを覚えるほどである。ところで、掲句。なんだかうら寂しい調子で、およそ荻人句の勢いには通じていない。それは蕪村が、木槿に命のはかなさを見ているからだ。たいていの木槿は早朝に咲き、一日でしぼんで落ちてしまう。そこが朝顔との「うすきゆかり」なのである。花の命は短くて「槿花一日の栄」と言ったりもする。しかし私には、どうもピンとこない。たとえ盛りを過ぎても、木槿の花にこの種の寂しさを感じたことはない。理屈としては理解できるが、次から次へと咲きつづけるし花期も長いので、むしろ逞しささえ感じてきた。桜花の短命とは、まったく異なる。『白氏文集』では、松の長寿に比してのはかなさが言われているから、掲句は実感を詠んだというよりも、教養を前面に押し立てた句ではないだろうか。句の底に、得意の鼻がピクッと動いてはいないか。そんな気がしてならない。一概に教養を踏まえた句を否定はしないけれど、これでは「朝顔」が迷惑だろう。失敗した(!?)理屈句の見本として、我が歳時記に場所を与えておく。(清水哲男)
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