宣伝。本日付の「日経」40面に「もう、秋か!」を書きました。新聞って、立ち読みできませんねエ。




2000ソスN9ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0392000

 赤とんぼまだ日の残る左中間

                           上谷昌憲

の季節の野球場。ナイト・ゲームは、午後六時開始。カクテル光線と沈みゆく夕日の光りとが入り交じったグラウンドの場景は、夢のように美しい。作者は、まだ残る「左中間」の自然光の明るさのなかに「赤とんぼ」を認めて、和田誠流に言えば「お楽しみはこれからだ」と、もう一度座り直したところだろうか。野球を素材にした俳句は数あれど、球場の心地よい雰囲気を詠んだ句には、はじめて出会った。神宮だろうか、横浜だろうか。いいなあ、行きたいなあと思ってしまう。エポック社の野球ゲーム盤みたいなドーム球場では、絶対に味わえない雰囲気だ。「赤とんぼ」も含めての野球なのである。その昔、ある雑誌の企画で川本三郎さんと「全国球場めぐり」をしたことがある。もったいなくもゲームはそっちのけで、あくまでも「球場」が取材対象だった。なかで印象深かったのは、広島球場と名古屋球場、それに西宮球場だ。広島では応援団の絶妙なユーモアに舌を巻き、名古屋では売られている食べ物の種類の豊富さに驚いた。西宮では、まさに掲句の感じ。思えば「阪急ブレーブス」(現在の「オリックス」)に、落日の兆しがほの見えていた頃である。あのころの球場には「赤とんぼ」も飛んでいたし、蝶も舞っていた。日本シリーズで、巨人・牧野三塁コーチャーに戯れるように舞っていた秋の蝶よ、後楽園球場よ。懐しい日々。「俳句界」(2000年9月号)所載。(清水哲男)


September 0292000

 朝顔にうすきゆかりの木槿かな

                           与謝蕪村

槿(むくげ)の花盛りの様子は、江戸期蕉門の俳人が的確に描いているとおりに「塀際へつめかけて咲く木槿かな」(荻人)という風情。盛りには、たしかに塀のあたりを圧倒するかの趣がある。とくに紅色の花は、実にはなやかにして、あざやかだ。残暑が厳しいと、暑苦しさを覚えるほどである。ところで、掲句。なんだかうら寂しい調子で、およそ荻人句の勢いには通じていない。それは蕪村が、木槿に命のはかなさを見ているからだ。たいていの木槿は早朝に咲き、一日でしぼんで落ちてしまう。そこが朝顔との「うすきゆかり」なのである。花の命は短くて「槿花一日の栄」と言ったりもする。しかし私には、どうもピンとこない。たとえ盛りを過ぎても、木槿の花にこの種の寂しさを感じたことはない。理屈としては理解できるが、次から次へと咲きつづけるし花期も長いので、むしろ逞しささえ感じてきた。桜花の短命とは、まったく異なる。『白氏文集』では、松の長寿に比してのはかなさが言われているから、掲句は実感を詠んだというよりも、教養を前面に押し立てた句ではないだろうか。句の底に、得意の鼻がピクッと動いてはいないか。そんな気がしてならない。一概に教養を踏まえた句を否定はしないけれど、これでは「朝顔」が迷惑だろう。失敗した(!?)理屈句の見本として、我が歳時記に場所を与えておく。(清水哲男)


September 0192000

 九月はじまる無礼なる電話より

                           伊藤白潮

あ、今日から九月。学校もはじまり、人々の生活も普段の落ち着きを取り戻す。気分一新。さわやかにスタートといきたかったのに、受話器を取ったら、まことに不愉快な電話だった。張り切ろうとした出鼻をくじかれた。プンプン怒っている作者の姿が、目に浮かぶ。同情はするけれど、なんとなく滑稽でもある。伊藤白潮は、このような人事の機微を詠ませたら、当代一流の俳人だ。なんとなく滑稽なのは、それこそなんとなく私たちが抱いている「九月」の常識的なイメージを、ひょいと外しているからである。この外し方の妙が、滑稽味を呼び寄せる。むろん、作者は承知の上。なんでもないようでいて、そこが手だれの腕の冴えと言うべきだろう。季語に執しつつ、季語にべたべたしない。実作者にはおわかりだろうが、この関係を句に反映させるのは、なかなかに困難だ。その意味で、掲句は大いに参考になるのではなかろうか。……と、私の「九月」は、この短い観賞文からはじまりました。あなたの「九月」は、どんなふうにはじまったのでしょう。『新日本大歳時記・秋』(1999)所載。(清水哲男)




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