小千谷に嫁いだ放送の相棒から、稲刈りがはじまったとのメール。早稲でしょうが、もうそんな季節。




2000ソスN9ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0492000

 切るだけで貼らぬ切抜き秋暑し

                           後藤雅夫

聞や雑誌の記事の「切抜き」。仕事にせよ趣味にせよ、あれはなかなか面倒なものだ。切り抜くだけは切り抜いても、きちんとスクラップ・ブックに貼っておかないと、用をなさない。つい、切り抜いたままにしてしまう。それが、どんどん溜まってくる。作者の机上にあるのは、おそらく今日の「切抜き」だけではないのだろう。涼しくなったらちゃんと整理しようと思っていたのが、いっこうに涼しくなってくれない。残暑が厳しい。だから、今日も面倒になって、切り抜いたままで放置してしまった。もちろん、大いに気にはなっている。その気持ちが「秋暑し」に、ぴたりと結びついている。私にも「切抜き」の覚えがあるので、よくわかる。何度もチャレンジして、一度も成功しなかった。本棚にはスクラップ・ブックが数冊あるが、引っ張り出すと、ばらばらっと貼ってない「切抜き」が抜け落ちてくる。おのれの怠惰を見せつけられたようで、愉快な気分じゃない。ならば貼らないで整理しようかと、山根一眞流に、項目分けした袋に放り込む方針に転換した。「俳句」の記事は「俳句」と書いた袋に、「野球」関係は「野球」の袋にと。この方法はけっこう長続きしたが、そのうちに切り抜くこと自体が面倒になり、あえなく頓挫。こういうことは、性に合わないらしい。『冒険』(2000)所収。(清水哲男)


September 0392000

 赤とんぼまだ日の残る左中間

                           上谷昌憲

の季節の野球場。ナイト・ゲームは、午後六時開始。カクテル光線と沈みゆく夕日の光りとが入り交じったグラウンドの場景は、夢のように美しい。作者は、まだ残る「左中間」の自然光の明るさのなかに「赤とんぼ」を認めて、和田誠流に言えば「お楽しみはこれからだ」と、もう一度座り直したところだろうか。野球を素材にした俳句は数あれど、球場の心地よい雰囲気を詠んだ句には、はじめて出会った。神宮だろうか、横浜だろうか。いいなあ、行きたいなあと思ってしまう。エポック社の野球ゲーム盤みたいなドーム球場では、絶対に味わえない雰囲気だ。「赤とんぼ」も含めての野球なのである。その昔、ある雑誌の企画で川本三郎さんと「全国球場めぐり」をしたことがある。もったいなくもゲームはそっちのけで、あくまでも「球場」が取材対象だった。なかで印象深かったのは、広島球場と名古屋球場、それに西宮球場だ。広島では応援団の絶妙なユーモアに舌を巻き、名古屋では売られている食べ物の種類の豊富さに驚いた。西宮では、まさに掲句の感じ。思えば「阪急ブレーブス」(現在の「オリックス」)に、落日の兆しがほの見えていた頃である。あのころの球場には「赤とんぼ」も飛んでいたし、蝶も舞っていた。日本シリーズで、巨人・牧野三塁コーチャーに戯れるように舞っていた秋の蝶よ、後楽園球場よ。懐しい日々。「俳句界」(2000年9月号)所載。(清水哲男)


September 0292000

 朝顔にうすきゆかりの木槿かな

                           与謝蕪村

槿(むくげ)の花盛りの様子は、江戸期蕉門の俳人が的確に描いているとおりに「塀際へつめかけて咲く木槿かな」(荻人)という風情。盛りには、たしかに塀のあたりを圧倒するかの趣がある。とくに紅色の花は、実にはなやかにして、あざやかだ。残暑が厳しいと、暑苦しさを覚えるほどである。ところで、掲句。なんだかうら寂しい調子で、およそ荻人句の勢いには通じていない。それは蕪村が、木槿に命のはかなさを見ているからだ。たいていの木槿は早朝に咲き、一日でしぼんで落ちてしまう。そこが朝顔との「うすきゆかり」なのである。花の命は短くて「槿花一日の栄」と言ったりもする。しかし私には、どうもピンとこない。たとえ盛りを過ぎても、木槿の花にこの種の寂しさを感じたことはない。理屈としては理解できるが、次から次へと咲きつづけるし花期も長いので、むしろ逞しささえ感じてきた。桜花の短命とは、まったく異なる。『白氏文集』では、松の長寿に比してのはかなさが言われているから、掲句は実感を詠んだというよりも、教養を前面に押し立てた句ではないだろうか。句の底に、得意の鼻がピクッと動いてはいないか。そんな気がしてならない。一概に教養を踏まえた句を否定はしないけれど、これでは「朝顔」が迷惑だろう。失敗した(!?)理屈句の見本として、我が歳時記に場所を与えておく。(清水哲男)




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