秋の日はつるべ落としで天に月。月齢11.7。田中絹代監督『月は上りぬ』(日活)をもう一度見たい。




2000ソスN9ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1092000

 不漁の朝餉鍋墨につく静かな火

                           佐藤鬼房

漁かが不明なので、無季句としておく。「不漁」に「しけ」のルビ。漁師の生活は知らないが、早朝の漁から戻っての朝餉の場面かと思う。大漁であれば活気に満ちる朝餉の座も、沈欝な雰囲気に包まれている。不漁が、もう何日もつづいているのだ。自在鉤(じざいかぎ)で囲炉裏に吊るした鍋のなかでは、いつものようにグツグツと海の物が煮えている。が、みな押し黙っている。ときおり鍋墨(なべずみ)に移った小さな火片が、静かに明滅している。掲句の鋭さは、落胆した人間の視線の落とし所を、的確に捉えているところだ。心弱いとき、人は視線をほとんど無意識のままに弱々しいものに向けるようだ。茫然とした心は、知らず知らずのうちに静かで弱々しいものに溶け込んでいくのか。そこで、すさんだ心情のいくばくかは慰謝され治癒される。この視線の動きは人間のこしゃくな知恵によるのではなくて、自然にそなわった(換言すれば、天が与え給うた)自己救済へとつながる身体的機能の一つだろう。だから、この句が特殊なシチュエーションを描いてはいても、普遍性も持つのである。ところで現代では、もはや囲炉裏で煮炊きする生活は消えてしまった。実際に「鍋墨」を知らない人のほうが、多くなってきただろう。このときに、私たちの日常生活における「静かな火」は、どこにあるのだろうか。心弱い視線の現代的な落とし所は、どこにあるのか。合わせて、考えさせられた。『海溝』(1976)所収。(清水哲男)


September 0992000

 別荘を築きて置くぞ大銀河

                           中川清彌

内稔典さんから、新著『俳句的人間 短歌的人間』(岩波書店)をいただいた。掲句は、集中の「楽しい辞世の句」に引用されている句だ。といっても、これは坪内さんが『一億人のための辞世の句』(蝸牛社)のために、全国から募集したなかの一句だから、作者が亡くなっているわけではない。いま死ぬとしたら、こんな句を作りますよということである。句意は「私が先に行って、大銀河の一等地に別送を築いておくから、何も心配しないで後からお出で」と、そんなところ。銀河に別荘とは豪勢だが、作者はよほど現実世界での別荘に憧れていると読める。この世ではかなわない夢を、あの世で果たそうというわけだ。イジマシくも、イジラしい。そして、優しい人柄……。坪内さんも書いているように、辞世句の試みなど、死をもてあそぶものだと反発する人もいるだろう。しかし、その気になって試みてみると、これがなかなかに面白い。たった十七文字に、いわば自分の生涯を凝縮させるわけだから、あれこれと悩み推敲しているうちに、時間がどんどん経ってしまう。自己発見の面白さ。でも、死は待ってくれないので、どこかで思い切ることも必要だ。とにかく、自分の地金があらわになることだけは必定で、秋の夜長の過ごし方の一法としてお薦めしておきたい。(清水哲男)


September 0892000

 手拭に桔梗をしほれ水の色

                           大高源五

古屋から出ている俳誌「耕」(加藤耕子主宰)をご恵贈いただいた。なかに、木内美恵子「赤穂義士・大高源五の俳句の世界」が連載されていて、飛びついて読んだ。源五が俳人(俳号・子葉)であり、其角と親しかったのは知っていたが、きちんと読んだことはない。掲句は、木内さんが九月号に紹介されている句で、一読、賛嘆した。詠んだ土地は、江戸から赤穂への途次に宿泊した見付の宿(現・静岡県磐田市)だと、これは源五が書いている。残暑の候。そこに「丸池」という美しい池があり、源五は首に巻いていた「手拭」を水に浸した。池辺には、桔梗の花(と、これは私の想像)。「しほれ」は「しぼれ(絞れ)」である。句は、桔梗を写す水に浸した真っ白い手拭いを絞るときに、桔梗の花のような色彩の「水の色」よ、出でよと念じている。念じているというよりも、桔梗色の水が絞り出されて当然という感覚だ。「桔梗をしほれ」とは、そう簡単には出てこない表現だろう。本当に、桔梗の花を両手で絞るかの思いと勢いがある。源五がよほど俳句を修練していたことがうかがえるし、その前に、動かしがたい天賦の才を感じる。其角とウマが合ったのも、わかる気がする。赤穂浪士切腹に際して、其角が次の句を残したのは有名だ。「うぐひすに此芥子酢はなみだかな」。源五を生かしておきたかった。(清水哲男)




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