五輪の日本サッカーだけは見ておいたほうがよい。信頼する若い友人に言われた。よしっ、見よう。




2000ソスN9ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1492000

 ローソンに秋風と入る測量士

                           松永典子

量士もそうだが、警官や看護婦や運転士や客室乗務員など、職場で作業着(制服)を着用して働く職業は多い。着用していると、機能的に仕事がしやすいという利点や、仕事中であることのサインを服自体が発するという利便性があり、権威に結びつくこともあるが、元来はそういう種類の衣服だ。ただ、作業着着用の人の職業が何であっても、共通しているのは、まったく日常的な生活臭を感じさせない点だ。職業に集中したデザインの服は、職業以外の何かを語ることはない。その意味で、着用している人は極度に抽象化された存在となっている。ポルノで「制服モの」に人気があるのは、抽象化された人間の具体を暴くための装置として、制服が位置づけられているからである。掲句は、抽象的な職業人の一人である「測量士」を「ローソン」に入らせたことで、瞬間的にふっと彼の生活臭を垣間見せている。弁当でも求めに入ったのだろう。この測量士の入るところが「ローソン」ではなく、たとえば事務所や公共的な建物だったら、このような生活臭は感じられない。生活のための商品をあれこれ売っている「ローソン」だからこそ、ふっと彼の生活臭がにおってくるのだ。爽やかな「秋風」に運ばれて……。作者の鋭敏な臭覚に、敬意を表する。『木の言葉から』(1999)所収。(清水哲男)


September 1392000

 木瓜の實をはなさぬ枝のか細さよ

                           後藤夜半

目は「はなさぬ」にあるのだろう。「はなさぬ」だから、木瓜(ぼけ)の枝は我とわが身の一部を「にぎっている」のである。木瓜の木を、擬人化しているわけだ。数日前にこの句を読んで、つくづくと「木瓜の實」がなっている姿をみつめることになった。近所にあるので、何度か見に行った。たしかに「か細い」枝である。直径三センチくらいの球形の実が、さながらサクランボのように、あちこちにかたまってなっている。物理的な必然から、当然に「か細い」枝はしなっている。夜半の書いたとおりだ。私は一度も、木瓜の枝など注視したことはなかったので、さすがに俳句の人は凄いもんだと感心した。でも、いくら熱心に見ても「はなさぬ」という見立てには通じなかった。この擬人化は何のためなのだろうかと、逆に疑念がわいてきてしまった。よく、わからない。悩んだあげくの(いまのところの)結論として、「か細さよ」を強調するためのテクニックだろうと決めてみた。しなった枝に、人間並みの「健気さ」を見ているのだと……。好意的にこれをとって、作者の身近に「擬木瓜化」したいような健気な「人」が存在していたのだろうと……。「木瓜」を詠んで「人」を詠んだのだと。実は私は、たいした理由根拠もないけれど、どうも動植物の擬人化が好きになれない。チャーリー・ブラウンは好きですが、スヌーピーはそんなに好きじゃないのです。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)


September 1292000

 月に行く漱石妻を忘れたり

                           夏目漱石

まりの月の見事さに、傍らの妻の存在も忘れてしまった。と、ちょっと滑稽な味付けで月を愛でた句。句意はこの通りでもよいのだが、前書に「妻を遺して独り肥後に下る」とある。漱石が1897年(明治三十年)に、熊本は五高の教授として単身赴任するときの句だ。このときの漱石には、妻を忘れようにも忘れられない事情があった。妻の鏡が流産して静養中の身だったからだ。一緒に行こうにも、行けなかった。止むを得ぬ単身赴任。そこで『吾輩は猫である』の作者は、境遇を逆手にとった。わざと事実を詠み違えた。肥後の月の美しさに魅かれて、俺はお前のこともすっかり忘れて出かけるんだよ。俺のことなど案じるなかれと、病む妻に反語的ながら、慈愛の心で挨拶を送っているのだ。当時の単身赴任は、相当に心細かったろう。胃弱の漱石のことだから、ちくりちくりとと胃の痛む思いだったろう。だから掲句は、同時に心細い我とわが身を励ますためのものだったとも読める。そうに違いない。月を詠んだ句はヤマほどあれど、この一見あっけらかんとした句には、異色の味わいがある。噛めば噛むほど、味が出る。『漱石俳句集』(1990)所収。(清水哲男)




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