ドイツ在住の娘より来信。五輪の野球中継がない、試合結果も報道しない。柔道中継はあったそうです。




2000ソスN9ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1992000

 モルヒネも利かで悲しき秋の夜や

                           尾崎紅葉

村苑子が「俳句研究」に連載中の「俳句喫茶室」を愛読している。物故した俳句作家(いわゆる「俳人」だけではなく)の作品にまつわるエピソードや句の観賞がさらりとした筆致で書かれていて、その「さらり」が実に味わい深い。10月号(2000年)では、永井荷風と尾崎紅葉が採り上げられている。そこで掲句を知ったわけだが、胃癌からくる痛みを抑えるための「モルヒネ」だ。中村さんによれば、このときの紅葉はもはや筆が持てず、すべて口述筆記で表現していたという。それにしても、すさまじい執念だ。不謹慎をおもんぱかる前に、このようなヘボ句を次々に書きとめさせた意欲には、笑いだしたくなるほどの凄みがある。ひとたび俳句にとらわれ、没入すると、人は最後までこのように俳句にあい渉るものなのか。『金色夜叉』の門弟三千人の文豪でも、のたうちまわりながら、遂に俳句だけは手放さないのか。このとき、紅葉にとって俳句とは何だったのだろう。笑った後に、ずしりと重たいものが残る。文学の夜叉を感じる。だが悲しいことに、辞世の句とされる「死なば秋 露の干ぬ間ぞ面白き」は、整いすぎていて面白くない。このヘボ句の壮絶さには、とてもかなわない。口述筆記だから、途中で一文字あけた細工(ここをつづめると、たしかに座りは悪くなる)といい、弟子の誰かが死化粧をほどこしすぎたのである。そんな邪推もわいてくる。『紅葉句帳』所収。(清水哲男)


September 1892000

 刈田ですわたくしたちの父たちです

                           小川双々子

を刈り取ったあとの田圃(たんぼ)、整然と切り株が並んでいる。散髪したての頭のように、さっぱりとして見える。農村で暮らした子供のころの私は、さあ、今年もここで野球ができるぞと勇み立った。勇み立って、たしかに盛んに野球をやったけれど、最初はなんだか足の裏が痛いような感じも覚えたものだ。刈田とはいえ、田圃が決して遊び場ではないことを知っていたからである。農家の生命源であることくらいは、農家の子なら誰にでもわかっていた。そんなわけで後年、掲句に接して、あっと思った。足の裏が痛かったのは「わたくしたちの父たち」を理不尽にも踏んづけていたからなのだ、親不孝だったのだと。田圃は農家の生命源というよりも、人間の生命そのものであったのだと。稲作という労苦の果ての形骸なのではなく、依然として刈田では「わたくしたちの父たち」の労苦が継続している場なのだと……。が、刈田で野球に興じていると、いつしか最初の痛みなど忘れてしまう。たとえ人の生命を踏んづけている認識があったとしても、同じことだったろう。「遊び」一般とは、そういうものだ。それはそれで、仕方がない。恐いのは、興じているうちに、掲句のような視点(考え)を理解できなくなることだと思う。「稔るほどに頭(こうべ)を垂るる稲穂かな」などと説教めかして言われないと、気がつかなくなることだろう。敬虔の念は、説教されて生まれてくるものではない。……と、しかし、これもまた私流の「説教」かしらん(苦笑)。作者はキリスト者。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)


September 1792000

 栗飯に間に合はざりし栗一つ

                           矢島渚男

ヤリ。語意の二重性から、ぽろりと滑稽味が転がり出てくる句。普通に読めば、栗飯(くりめし)に炊き込むには、虫食いか何かで適当でない(間に合わない)栗が、ぽつねんと一つ寂しく残されてあるということだ。おそらく、作者の発想はそこから出ているのだろう。が、栗の役立たずを言うときに「間に合はざりし」と、故意に「時間に間に合わない」とも読める言葉を使用することで、栗の様子がかなり変化した。栗飯の支度に間に合うよう一所懸命に走ってきたのに、「遅かりし、ユラノスケ……」と言われてしまった(笑)。きっと「サルカニ合戦」の栗のように、口を「への字」一文字に曲げているのだ。そんな隠し味が仕込まれている。そうすると、眼前の「栗一つ」が、健気にも可愛いくも見え、いっそう哀れにも見えてくる。存在感が拡大されている。私はあまり擬人化が好きではないが、この程度の諧謔的な範囲での使用ならば許容できる。栗といえば、同じ作者に「栗に栗虫人間に人間虫」がある。こちらは、なかなかにキツい。身にコタえる。ああ、「クリゴハン」が食べたくなってきた、作るのは面倒だけど。吉祥寺「近鉄」の地下で売ってるのは、知ってるけど。商品の栗飯は美味いといえば美味いけど、まったく失敗の味がしないので、好きじゃない。一般的な「正義」の味でしかない。『梟のうた』(1995)所収。(清水哲男)




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