首相の提唱するIT構想には野党も及び腰。よくわからないからだ。「ITって何?」とまっすぐに聞け。




2000ソスN9ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2692000

 秋の箱何でも入るが出てこない

                           星野早苗

ンスのよいナンセンス句。こういう句をばらばらに分解して解説してみても、はじまらない。丸のみにして、作者に説得される楽しさを味わえれば、それでよい。……と言いながら、一つだけ。「秋の箱」でなくたっていいじゃないか。「春の箱」でも「夏の箱」でもよいのではないか。最初そう思って、他の三つの季節に入れ替えてみた。入れ替えて、一つ一つをイメージしてみた(私もヒマだ)。まずは「春の箱」だが、ふにゃふにゃしすぎており「何でも入る」けれど何でも出てくる感じ。「夏」だと、暑苦しくて何も入れたくない。「冬」にすると、箱の堅牢さは保証されるが、「何でも入る」というわけにはいかないようだ。となれば、やっぱり「秋の箱」。透明にして、容積は無限大。だから「何でも入るが出てこない」。むろん作者は、こんな面倒くさい消去法で「秋」をセレクトしたわけではない。パッとそんなふうに閃いたから、パッと「秋の箱」と詠んだのである。どんな句にも「パッ」はつきものだ。いや、「パッ」こそが命だ。理屈は、後からついてくるにすぎない。同じ作者に「高感度のキリン私が見えますか」がある。パッと「高感度」が光っている。ただし、これらの閃きにパッと感応しない読者もいるだろう。それはそれで仕方がない。どちらが悪いというものではない。『空のさえずり』(2000)所収。(清水哲男)


September 2592000

 蓑虫や天よりくだる感嘆符!

                           小沢信男

虫(みのむし)というと、たとえば「蓑虫の寝ねし重りに糸ゆれず」(能村登四郎)など、既にぶら下がっている状態を思うのが普通だろう。既にぶら下がっているのだから、蓑虫の動きは風による水平移動に限定される。「糸ゆれず」も、ゆれるとすれば左右への動きとなる。ところが、掲句は蓑虫の垂直の動きを捉えることで、私たちの観察の常識を破った。すうっと上から下ってきた蓑虫が静止した瞬間を、発止と捉えている。この鮮やかさ。その姿を「感嘆符!」に見立てた切れ味の鋭さ。「!」に見られる諧謔味も十分であり、同時に私たち人間のの感嘆が「天よりくだる」としか言いようのない真実を押さえて重厚である。掲句を読んだあとでは、ぶら下がっている蓑虫を見る目が変わってしまう。垂直に誕生してきた虫を思うことになる。つくづく、この世に俳句があってよかったと嬉しく思う一瞬だ。。作者にとっても、事はおそらく同様だろう。作者にとってのこの一句は、恩寵のように垂直に、それこそ「俳句の天」よりくだりきたものであるはずだからだ。『んの字』(2000)所収。(清水哲男)


September 2492000

 邯鄲に美しき客あれば足る

                           京極杞陽

鄲(かんたん)の鳴き声は、ル、ル、ルと夢のように美しい。昨今、各地で邯鄲を聞く会が開かれるのも宜なるかな。句の言うように、加えて「美しき客」があり座敷が匂い立てば、何の不足もない。秋の夜の至福の時である。このときに「美しき客」とは、必ずしも美貌の女性でなくともよいだろう。肝胆相照らし、しかし、互いに礼節はわきまえる間柄の男であれば、やはり「美しき客」である。いずれにせよ、「美しき客」がなおいっそう美しいのは、やがては座敷から去ってしまう人だからだ。楽しき語らいが、夢のように消えてしまうからである。邯鄲の美しい鳴き声も、また消えてゆく。「足る」は寸刻。だから「足る」のであり、それでよい。中国に「邯鄲の夢(「邯鄲の枕」とも)」の故事があって、「邯鄲」の虫の名は、ここに発する。掲句もこの故事を、下敷きにしていると思われる。「[沈既済、枕中記](官吏登用試験に落第した盧生という青年が、趙の邯鄲で、道士呂翁から栄華が意のままになるという不思議な枕を借りて寝たところ、次第に立身して富貴を極めたが、目覚めると、枕頭の黄粱がまだ煮えないほど短い間の夢であったという故事)。 人生の栄枯盛衰のはかないことのたとえ」(『広辞苑』第五版)。『さめぬなり』(1982)所収。(清水哲男)




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