国威発揚の責務を背負った選手がドーピング検査に引っ掛かる。悲しい現実。五輪など止めてしまえ。




2000ソスN9ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2792000

 リヤカーにつきゆく子等や花芒

                           星野立子

和初期の句。何を積んでひいているのだろうか。引っ越し荷物だとしても、「つきゆく子等」は、リヤカーをひく人の子供たちではないだろう。近所の子供らが、好奇心にかられて寄ってきたのだ。「花芒(はなすすき)」は、さわさわと子供らの手にある。こういう光景は、よく市井に見られた。何か珍しいものを見かけると、すぐに子供らは飛んで行った。まだ自動車が珍しかったころには、私も表に飛んで出た。近所からも、ばらばらっと出てきた。しばらく後を追っかけて、胸いっぱいにガソリンの臭いを吸い込むのであった。落語にも、町内にまわってきたイカケヤを悪ガキどもが取り囲み、そのやりとりを面白可笑しく聞かせる咄がある。昔はよかった。と、一概には言えないにしても、少なくとも昔の道端はよかった。面白かった。いまは、ちっとも面白くない。すべての道が点から点へ移動するためのメディアとして消費されており、ゆったりとした道端時間がないからだ。東京あたりでは、たまの大雪などで点と点の間を移動する機能が麻痺したときにだけ、道端時間が忽然と復活する。そんなときにだけ、私は積極的に表に飛び出す気になる。こんな道端事情だから、話は飛ぶが、いまの子供らには「路傍の石」の含意もわかるまい。最近、山本有三の文章が国語の全教科書から消えたと聞いた。『立子句集』(1937)所収。(清水哲男)


September 2692000

 秋の箱何でも入るが出てこない

                           星野早苗

ンスのよいナンセンス句。こういう句をばらばらに分解して解説してみても、はじまらない。丸のみにして、作者に説得される楽しさを味わえれば、それでよい。……と言いながら、一つだけ。「秋の箱」でなくたっていいじゃないか。「春の箱」でも「夏の箱」でもよいのではないか。最初そう思って、他の三つの季節に入れ替えてみた。入れ替えて、一つ一つをイメージしてみた(私もヒマだ)。まずは「春の箱」だが、ふにゃふにゃしすぎており「何でも入る」けれど何でも出てくる感じ。「夏」だと、暑苦しくて何も入れたくない。「冬」にすると、箱の堅牢さは保証されるが、「何でも入る」というわけにはいかないようだ。となれば、やっぱり「秋の箱」。透明にして、容積は無限大。だから「何でも入るが出てこない」。むろん作者は、こんな面倒くさい消去法で「秋」をセレクトしたわけではない。パッとそんなふうに閃いたから、パッと「秋の箱」と詠んだのである。どんな句にも「パッ」はつきものだ。いや、「パッ」こそが命だ。理屈は、後からついてくるにすぎない。同じ作者に「高感度のキリン私が見えますか」がある。パッと「高感度」が光っている。ただし、これらの閃きにパッと感応しない読者もいるだろう。それはそれで仕方がない。どちらが悪いというものではない。『空のさえずり』(2000)所収。(清水哲男)


September 2592000

 蓑虫や天よりくだる感嘆符!

                           小沢信男

虫(みのむし)というと、たとえば「蓑虫の寝ねし重りに糸ゆれず」(能村登四郎)など、既にぶら下がっている状態を思うのが普通だろう。既にぶら下がっているのだから、蓑虫の動きは風による水平移動に限定される。「糸ゆれず」も、ゆれるとすれば左右への動きとなる。ところが、掲句は蓑虫の垂直の動きを捉えることで、私たちの観察の常識を破った。すうっと上から下ってきた蓑虫が静止した瞬間を、発止と捉えている。この鮮やかさ。その姿を「感嘆符!」に見立てた切れ味の鋭さ。「!」に見られる諧謔味も十分であり、同時に私たち人間のの感嘆が「天よりくだる」としか言いようのない真実を押さえて重厚である。掲句を読んだあとでは、ぶら下がっている蓑虫を見る目が変わってしまう。垂直に誕生してきた虫を思うことになる。つくづく、この世に俳句があってよかったと嬉しく思う一瞬だ。。作者にとっても、事はおそらく同様だろう。作者にとってのこの一句は、恩寵のように垂直に、それこそ「俳句の天」よりくだりきたものであるはずだからだ。『んの字』(2000)所収。(清水哲男)




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