交差点で向こうから来る三人に一人が携帯電話で話していた。よく話すことがあるな。私には、ない。




2000ソスN9ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 3092000

 色鳥の尾羽のきらめき来ぬ電話

                           恩田侑布子

んな場面を想像する。絶好の行楽日和。外出の仕度は、すっかりととのった。後は、車で迎えに来てくれる人を待つのみだ。およその時間はあらかじめ約束してあるのだが、道路の混み具合もあるので、当日の今日、もう一度電話をもらうことになっている。その電話が、なかなかかかってこない。約束の時間は、もう大幅に過ぎている。もしやと思い、先方に電話を入れてみたが、とっくに家は出ているという。そろそろ着くころだという。となると、途中で何かあったのだろうか。不安になる。が、あれこれ考えてみても仕方がない。結局は、待つしかないのである。苛々しながら窓の外を見やると、何羽かの鳥の尾羽が樹間にきらめいている。普段であれば美しく思える光景も、いまは苛々度を助長するばかりに見えてしまう。電話は、まだ、かかってこない……。「色鳥(いろどり)」は、いろいろな鳥と色とりどりの美しい鳥とをかけた季語だ。総称的に、秋の小鳥の渡りについて言う。したがって、掲句のように焦慮感につなげて詠まれるケースは珍しい。そこが、この句の新しさだと思った。少々ふざけておけば、このときの「色鳥」はほとんど「苛鳥(イラドリ)」なのである。『イワンの馬鹿の恋』(2000)所収。(清水哲男)


September 2992000

 店の柿減らず老母へ買ひたるに

                           永田耕衣

物なのだろう。母に食べてもらおうと、柿を求めた。老母のためだから、数はそんなに必要はないのだが、ちょっと多めに買った。いくつかは無駄になるとしても、母に差し出すときには、はなやかに見えるほうがよい。気持ちのご馳走だ。ところが買った後で、もう一度店先の柿の実の山を見てみると、少しも減った感じがしない。自分が買ったのに、その行為の痕跡もないのだ。せっかく「母へ買ひたるに」もかかわらず、これでは子としての母への思いが通じないじゃないか。バカみたいじゃないか。と、内心で深く作者は落胆している。この句は、我々の「プレゼント欲」の本質を突いている。老母へのプレゼントに下心などあるはずもないが、しかし、単純に喜んでほしいと思うのも手前勝手な「欲」には違いない。「欲」だから、できればその「欲」の成就を、あらかじめ保証してくれる何かが欲しい。このときに簡単なのは、自分が相手のために確かにある行為をしたという確かな痕跡を見ることだ。例えば、大富豪が恋人のために街中の花屋の花を買い占めてしまうのも、買い占めるときの気持ちは、自分の「欲」の成就を確信したいがためなのである。花を全部買い占めるのも柿を少し余分に買うのも、つまるところ「欲」の構造としては相似形だ。意地悪だろうか、私の読みは……。『驢啼集』(1952)所収。(清水哲男)


September 2892000

 もの提げて手が抜けさうよ蚯蚓鳴く

                           八木林之助

い荷物を両手に提げて、数歩歩いては立ち止まる。既に秋の日はとっぷりと暮れており、すれ違う人とてない田舎道。ただ聞こえるのはジーッジーッと鳴く「蚯蚓(みみず)」の声だけで、情けないこと甚だしい。加えて、たぶん作者には、荷物を道端に置けない事情があるのだ。道がぬかるんでいるのか、あるいは絶対に汚してはならない進物の類か。だから、「手が抜けさう」でも我慢している。「蚯蚓」の鳴き声すらもが、なんだか自分を嘲笑するかのように聞こえてくる。で、思わずも「手が抜けさうよ」と弱気になり、しかし、くじけてはならじと、またよろよろと歩き出す……。眼目は「手が抜けさうよ」の「よ」だ。「よ」は口語的な訴えかけだが、掲句では訴えかける相手はいない。強いて言えば自分自身に向けられており、少しだけどこにいるとも知れぬ「蚯蚓」にも向けられている。両者ともに、訴えたってしようがない対象だ。この「よ」が利いて、句に可笑しみが出た。季語の「蚯蚓鳴く」であるが、もとより「蚯蚓」が鳴くわけはない。秋の夜、ジーッと重い声で鳴いているのは「螻蛄(けら)」である。いわゆる「おけら」だ。それを昔の人は(いや、今でも)「蚯蚓」の鳴き声だと信じていた。そんなことは、どっちだっていいっ。何とかしてくれえっと、作者はまだふらつきながら歩いている。当分、この句は終わらない。『合本歳時記・新版』(1974)所載。(清水哲男)




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