十月だ。「自然玄妙」と壁の武者小路カレンダー。原稿百枚。遠出一回。「自然減量」の月となりそう。




2000ソスN10ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 01102000

 林檎投ぐ男の中の少年へ

                           正木ゆう子

が大勢いて、そのなかの少年に投げたのではない。男は、一人しかいない。その一人のなかにある「少年性」に向けて投げたのだ。「投ぐ」とあるが、野球などのトス程度の投げ方だろう。ちょっとふざけて、少し乱暴に投げた感じもある。いずれにしても、作者は投げる前に、キャッチする男の子供っぽい仕草を読んでいる。そんな仕草を引きだしたくて、投げている。何故と聞くのは野暮天で、楽しいからに決まっている。他愛ないことが楽しいのは、恋人たちの特権だ。それにしても男女の間柄で、女はなかなか少女の顔を見せないのに、男はすぐに少年になるのは、それこそ何故なのだろう。女のことはわからないが、よほど男は甘える対象に餓えているのかと、思ったりする。パブリックな社会では、男の甘えは許されない。甘えは「幼稚」という評価につながり、互いに「大人」のヨロイカブトで牽制しつつ、「少年」を隠しあう。だから、いかにタフな男でも、息が詰まる。詰まるから、私的な空間ではたちどころに女に甘えてしまう。……なあんて、ね。掲句に対する「大人」の男の最も礼儀正しい態度は、俯いて「ごちそうさま」と言うことである。『水晶体』(1986)所収。(清水哲男)


September 3092000

 色鳥の尾羽のきらめき来ぬ電話

                           恩田侑布子

んな場面を想像する。絶好の行楽日和。外出の仕度は、すっかりととのった。後は、車で迎えに来てくれる人を待つのみだ。およその時間はあらかじめ約束してあるのだが、道路の混み具合もあるので、当日の今日、もう一度電話をもらうことになっている。その電話が、なかなかかかってこない。約束の時間は、もう大幅に過ぎている。もしやと思い、先方に電話を入れてみたが、とっくに家は出ているという。そろそろ着くころだという。となると、途中で何かあったのだろうか。不安になる。が、あれこれ考えてみても仕方がない。結局は、待つしかないのである。苛々しながら窓の外を見やると、何羽かの鳥の尾羽が樹間にきらめいている。普段であれば美しく思える光景も、いまは苛々度を助長するばかりに見えてしまう。電話は、まだ、かかってこない……。「色鳥(いろどり)」は、いろいろな鳥と色とりどりの美しい鳥とをかけた季語だ。総称的に、秋の小鳥の渡りについて言う。したがって、掲句のように焦慮感につなげて詠まれるケースは珍しい。そこが、この句の新しさだと思った。少々ふざけておけば、このときの「色鳥」はほとんど「苛鳥(イラドリ)」なのである。『イワンの馬鹿の恋』(2000)所収。(清水哲男)


September 2992000

 店の柿減らず老母へ買ひたるに

                           永田耕衣

物なのだろう。母に食べてもらおうと、柿を求めた。老母のためだから、数はそんなに必要はないのだが、ちょっと多めに買った。いくつかは無駄になるとしても、母に差し出すときには、はなやかに見えるほうがよい。気持ちのご馳走だ。ところが買った後で、もう一度店先の柿の実の山を見てみると、少しも減った感じがしない。自分が買ったのに、その行為の痕跡もないのだ。せっかく「母へ買ひたるに」もかかわらず、これでは子としての母への思いが通じないじゃないか。バカみたいじゃないか。と、内心で深く作者は落胆している。この句は、我々の「プレゼント欲」の本質を突いている。老母へのプレゼントに下心などあるはずもないが、しかし、単純に喜んでほしいと思うのも手前勝手な「欲」には違いない。「欲」だから、できればその「欲」の成就を、あらかじめ保証してくれる何かが欲しい。このときに簡単なのは、自分が相手のために確かにある行為をしたという確かな痕跡を見ることだ。例えば、大富豪が恋人のために街中の花屋の花を買い占めてしまうのも、買い占めるときの気持ちは、自分の「欲」の成就を確信したいがためなのである。花を全部買い占めるのも柿を少し余分に買うのも、つまるところ「欲」の構造としては相似形だ。意地悪だろうか、私の読みは……。『驢啼集』(1952)所収。(清水哲男)




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