2000N10句

October 01102000

 林檎投ぐ男の中の少年へ

                           正木ゆう子

が大勢いて、そのなかの少年に投げたのではない。男は、一人しかいない。その一人のなかにある「少年性」に向けて投げたのだ。「投ぐ」とあるが、野球などのトス程度の投げ方だろう。ちょっとふざけて、少し乱暴に投げた感じもある。いずれにしても、作者は投げる前に、キャッチする男の子供っぽい仕草を読んでいる。そんな仕草を引きだしたくて、投げている。何故と聞くのは野暮天で、楽しいからに決まっている。他愛ないことが楽しいのは、恋人たちの特権だ。それにしても男女の間柄で、女はなかなか少女の顔を見せないのに、男はすぐに少年になるのは、それこそ何故なのだろう。女のことはわからないが、よほど男は甘える対象に餓えているのかと、思ったりする。パブリックな社会では、男の甘えは許されない。甘えは「幼稚」という評価につながり、互いに「大人」のヨロイカブトで牽制しつつ、「少年」を隠しあう。だから、いかにタフな男でも、息が詰まる。詰まるから、私的な空間ではたちどころに女に甘えてしまう。……なあんて、ね。掲句に対する「大人」の男の最も礼儀正しい態度は、俯いて「ごちそうさま」と言うことである。『水晶体』(1986)所収。(清水哲男)


October 02102000

 朝寒のベーコン炒めゐたりけり

                           草間時彦

間時彦の句に出てくる食べ物は、いつも美味しそうだ。食の歳時記といった著書もあると記憶するが、いわゆる「食通」ではなく、舌のよさを誇示するようなところはない。むしろ誰もが食べている普通の食材、普通の料理から、それぞれの美味しい味を引き出す名人とでも言うべきか。掲句のベーコンにしても、然り。炒められているベーコンは、寒くなってきた朝という設定のなかにあってこそ、まことに香ばしい美味を思わせる。「朝寒(あささむ)」に襟を掻きあわせたい気分で起きてくると、台所では妻がベーコンを炒めていた。とても嬉しい気分になった。その妻の様子を「炒めゐたりけり」と大きく捉えることで、気の利く妻への無言の感謝の念と、間もなくカリカリに揚がって食卓に出てくるベーコンへの期待感を詠み込んでいる。もちろんベーコンでなくてもよいのだが、寒くなりかけた朝の透明な空気にベーコンとは洒落ているのだ。私はベーコン好きだから、余計にそう感じるのだろうが……。ともかく句をパッと読んだとたんに、パッと食べたくなる。誰にも作れそうでいて、作ろうと思うとなかなかに難しそうな句だ。芸の力を思う。『櫻山』(1974)所収。(清水哲男)


October 03102000

 雁来紅弔辞ときどき聞きとれる

                           池田澄子

が飛来するころに葉が紅く色づくので「雁来紅」。「かまつか」の読みも当てるが、掲句ではそのまま「がんらいこう」と読ませるのだろう。葉鶏頭のこと。故人とは特別に親しかったわけでもないので、作者は参列者の末席あたりにいる。「雁来紅」が目に写るということは、小さな寺で堂内に入れずに、境内に佇んでいるのかもしれない。こういうことは、よくある。したがって、弔辞もよく聞こえない。こうした場合、普通は「よく聞きとれぬ」と言うところを、同じことなのだが「ときどき聞きとれる」とやったところに可笑しみが出た。物も言いようと言うけれど、掲句の「言いよう」には俳句での年季が感じられる。「聞きとれぬ」と「聞きとれる」では、葬儀そのものへの感情的距離感がまったく違ってしまう。「聞きとれぬ」は悲哀に通じ、逆に「聞きとれる」は諧謔に通じる。作者は、そのことを十二分に承知している。「雁来紅」はいよいよ鮮やかに目に沁み、いわば義理で出ている葬儀はなかなか終わりそうもない。『ゆく船』(2000)所収。(清水哲男)


October 04102000

 粟の穂や一友富みて遠ざかる

                           能村登四郎

(あわ)は五穀の一つ。他は、稲、麥、黍(きび)、稗(ひえ)である。芭蕉に「粟稗にまづしくもなし草の庵」とあり、昔は粟や稗を主食とする者は貧しい人たちであった。「あは」は「あはき」の略という説もあり、米などよりも味が淡いことから来ているというが、風に揺れる粟の穂の嫋々たる姿をも感じさせる命名だ。句意は明瞭。一友は、事業にでも成功したのだろう。あれほど仲がよかったのに、爾来すっかり疎遠になってしまった。かつては伴に歩いたのであろう粟畑の道を、彼ひとり「遠ざかる」姿が見えているのか。しかし、作者には、離れていった友人に対する嫉(そね)みもなければ、ましてや恨みもない。半ば茫然と、浮世の人間(じんかん)の不思議さを詠んでいる。その淡々とした詠みぶりが、粟畑をわたる秋風に呼応している。最近はさっぱり粟畑を見ないが、まだ栽培している農家はあるのだろうか。昔の我が家では少し作っていて、正月用の粟餅にして食べていた。美味。『合掌部落』(1956)所収。(清水哲男)


October 05102000

 ねむたしや霧が持ち去る髪の艶

                           櫛原希伊子

しかに、霧は「ねむた」くなる。山の子だったから、この季節には薄い霧にまかれて登校した。うっすらと酔ったような感じになり、それがかすかな眠気を誘い出すようである。「夢うつつ」とまではいかないが、景色のかすむ山道は、夢の淵につながっているようにも思えた。その霧が、風に吹かれてさーっと晴れていく。夢の淵も、たちまちにして現実に戻る。しかし、まだ「ねむたし」の気分はそのままなので、消えた霧といっしょに「ふと大事なものを失ったような気がする」(自註)。その大事なものが「髪の艶(つや)」であるところに、女性ならではの発想が感じられ、作者のデリカシーを味わうことができた。男だと、どう詠むだろうか。自問してみたが、具体的には思い浮かばない。強いて言うならば身体的な何かではなく、精神的な何かだろうか。でも、それではおそらく「髪の艶」の具体には適うまい。説得力に欠けるだろう。具体を言いながら抽象を言う。俳句様式の玄妙は、そういうところにもある。櫛原希伊子の魅力は、一瞬危うくも具体を手放すように見えて、ついに手放さないところにあるようだ。常に、現場を離れない。冬季になるが、もう一句。「枯れ切つて白き芦なり捨て身なり」。季語は「枯芦」。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


October 06102000

 煙草女工に給料木犀よりあかるし

                           飴山 實

料日。不思議なもので、誰が口に出すわけでもないのに、なんとなく会社や工場のなかがはなやぐから、訪ねた第三者にもそれとわかる。作者は戦後間もなく、生活改善運動などに取り組んでいたので、その折りの一光景だろうか。まだ「女工」という言葉が生きていた。決して高くはない給料を手にした彼女たちが素直に喜んでいる様子を、敷地内の「木犀(もくせい)」に「よりあかるし」と照り返させている。愛情にいささかの哀惜の情が入り交じって、美しい一句となった。この「より」を「MORE」ではなく「THAN」と読むことも可能だが、私には「MORE」のほうが工場全体の雰囲気を伝えていて、好もしい。「THAN」だと、句が平板になるように思う。いずれにしても、当時の給料は現金支給だったので、明るさが自然に素朴に出たのだろう。私が勤めていた1960年代の河出書房もキャッシュであり、おまけに月二回システムだったから、社内は月に二度はなやいだ。もっとも、その頃の文藝春秋社などは、なんと週給制を採用していた。どういうわけだったのだろう。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)


October 07102000

 何もないとこでつまずく猫じゃらし

                           中原幸子

ういうことが、私にもたまに起きる。どうしてなのか。甲子園で行進する球児のように、極度の緊張感があるのならばわかる。足並みを揃えなければと思うだけで、歩き方がわからなくなるのだ。だから、チームによっては極度に膝を高く上げて歩いたりする。普段と違う歩き方を意識することで、これは存外うまくいくものだ。しかし、一人でなんとなく歩いていてつまずくとは、どういう身体的な制約から来るのだろうか。やはり、突然歩き方がわからなくなったという意識はある。そう意識すると、今度は意識しているから、余計につまずくことになる。道端で「猫じゃらし」が風にゆれている。くくっと笑っているのだ。コンチクショウめが……。そこで、またつまずく。「猫じゃらし」の名前は一般的だが、昔は仔犬の尻尾やに似ていることから、どちらかというと「狗尾草(えのころぐさ)」のほうがポピュラーだったようだ。たいていの歳時記の主項目には「狗尾草」とある。「良い秋や犬ころ草もころころと」(一茶)。この句は、仔犬の可愛らしさに擬している。『遠くの山』(2000)所収。(清水哲男)


October 08102000

 はたおりの子を負ひたればあはれなり

                           山口青邨

ょっと待って……。ここから先を読む前に、もう一度掲句に戻っていただきたい。句に戻って、句に詠まれた情景をイメージしてから、ここに戻ってきてください。さて、どうですか。イメージは浮かびましたか。そのイメージは、とても大切です。赤ん坊をおんぶして、機織(はたおり)の仕事に励んでいる女性の姿が浮かんだと思います。子育てをしながら、なおかつ賃仕事を強いられる貧しい女性の姿でしょうね。だから、作者は「あはれ」だと……。しかし、賢明な諸兄姉が既にお気づきのように、だとすると、この句には季語が無い。有季定型俳人である青邨が、無季句を作るはずはない。はてな?? ところが、季語はあるのです。季語は「はたおり」。「ばった」のことです。「ばった」の異名は「機織虫」。仕草からの連想でしょう。「はたおり」は「きりぎりす」の異名でもあるけれど、この場合は「おんぶばった」を指しています。第一「きりぎりす」は遊び人ですしね(アリとキリギリス)。この「おんぶばった」の習性に、読者が最初にイメージした女性の姿を重ねての「あはれ」なのです。持って回った書き方をしてしまいましたが、作者もおそらくは、こう読んでもらいたかったのではないでしょうか。お口直しに(笑)、真っ当な「きちきちばった」の「あはれ」を、どうぞ。「きちきちといはねばとべぬあはれなり」(富安風生)。『合本俳句歳時記・新版』(1974)所載。(清水哲男)


October 09102000

 体育の日を書き物で過ごしけり

                           森田公司

育と「書き物」などの机上の所業とは、対立的な振る舞いとして捉えられてきた。身体を使うか、使わないか。対立軸は、そこにある。考えてみれば「文武両道」なる精神も、そこに発している。「文弱」なども同様だ。だから、掲句も意味を持つ。みんなが身体を動かすことに自覚的な一日を、我一人は文章を書いて過ごした。よんどころない原稿の締切に追われたせいなのか、あるいは誘われた市民運動会なんぞに参加してやるものかという反骨心(ひねくれ根性)からか、それは知らない。いずれにしても、句は常識としての対立概念をベースに成立している。しかし、それこそひねくれ根性のせいか、私はこの常識を好きになれない。体育と「書き物」などの「知育」とは対立してはいない。むしろ、平行している。共存している。極められるかどうかは別にして、人は誰でも本質的に「文武両道」であらざるを得ぬ生き物だろう。それをことさらに「体育」と言い「知育」と言ってきたのは、何のためだろうか。決まってるジャン、国家のためだ。富国強兵、お国のためである。「体育の日」は、東京五輪(1964)の記念日だ。お国のために開かれたオリンピックを、永久に思い出させようとする企みに発した旗日である。ヒットラーの愛人が作ったベルリン五輪の記録映画『民族の祭典』は、その素晴らしい映像を梃子に、この二項対立概念を「民族」に説得する方便としての映画でもあった。そして、戦争がはじまる。はじめは「体育」の人が死んでいき、結局は「知育」の人も後を追わされた……。「旗日とやわが家に旗も父もなし」(池田澄子)。『新日本大歳時記・秋』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


October 10102000

 秋澄むや山を見回す人の眼も

                           大串 章

者が詠んでいる人は、物珍しくて見回しているのではない。山で暮らす生活者の「眼」だ。好奇心の「眼」はきらきらとは光るが、ついに「澄む」までには至らない。山に住む人は、子供のころからずっと山を見回して生きてきたのだし、これからも生きていく。山は、実にいろいろなことを教えてくれるから、半ば本能的に見回すのだ。季節の移ろいを知ることは無論だが、その日の天候を知ることにはじまり、山の活気如何による作物の出来具合、はたまた自分の精神状態まで、それと意識しなくても、見回すだけでわかってくる。「自然にやさしく」などというしゃらくさい「眼」では、見回してもタカが知れている。したがって、この人の見回す「眼」は澄んでいる。澄んでいなければ、見回せない。「澄む」とは、環境に溶けていることだ。都会に暮らす作者は、ひさしぶりに見回す「眼」の澄んでいる人に接して、かつて山の子だった自身の周辺の「眼」を思い出したのだ。そこに、感動がある。見回す「眼」で、それこそ私は思い出した。笠智衆の「眼」だ。たとえば映画『東京物語』を思い出していただきたい。彼が見回すのは、山ではなくて瀬戸内海だが、同じことである。ああいう眼技のできる役者は、少ない。『東京物語』に限らないが、本当にその地で生活している人のように、自然にすうっと見回すことのできる名人であった。見回す「眼」は、いつも澄んでいた。作者主宰俳誌「百鳥」(2000年10月号)所載。(清水哲男)


October 11102000

 鳩吹いて昔をかへすよしもなし

                           清水基吉

語は「鳩吹く」だ。両方の掌を合わせて息を吹き込むと、山鳩の鳴くような音が出る。子供のころずいぶん練習したが、鳴らなかった。不器用なので、ピーピーッという指笛すらも鳴らせない。野球場で鳴らしている人がいると、口惜しくなる。さて、昔の人はなんのために「鳩」を吹いたのだろう。諸説あるようで、猟師が鹿などの獲物を発見したときに、互いに知らせあったというのも、その一つ。それもうなずけるが、掲句の場合には、山鳩を捕るときに誘い寄せるためという説があり、これに従うのが適当だろう。「鳩」を吹いて山鳩を誘い寄せる(誘い「かへす」)ことはできても、しかし「昔」だけは「かへすよしもなし」と詠嘆している。「鳩吹」の素朴な「ほうっほうっ」という音が、句全体に沁み渡っており、詠嘆を深いものにしている。前書に「那須大丸温泉に至る」とあるので、旅行中の吟と知れるが、作者はそこで思わずも「鳩」を吹いてみたくなるような懐しい風景に触れたのだろう。なんでもないような句だが、ある程度の年齢を重ねてきた読者には、はらわたにこたえるような抒情味を感じる一句である。作者は、横光利一の弟子であった芥川賞受賞作家。お元気のご様子、なによりです。作者主宰俳誌「日矢」(2000年10月号)所載。(清水哲男)


October 12102000

 母追うて走る子供の手に通草

                           橋本鶏二

々をこねて、叱られたのだろう。「そんな悪い子は、もう知りません」と、母親はどんどん先に歩いていく。すると、先ほどの駄々はどこへやら、泣きながら必死に母を追うことになった。誰にでも、子供のころに一度や二度は覚えがあるだろう。作者にも覚えがあって、微笑しながら追いかけている子供を見やっている。そしてふと、子供の手にしっかりと通草(あけび)が握られていることに気がついた。大人の必死であれば、そんなものは捨ててしまって走るところだ。子供にしてみれば、母親も大事だが、食べたい通草も大事。やっぱり、子供は子供なんだ。可愛いもんだ。と、そんな含みも多少はあるのだろうが、もう少し掲句は深いと思う。子供の持つ通草は、母親が獲ってくれたものだとすれば、子供の手にあるのは母親の「慈愛」がもたらしたものだ。子供は母の「慈愛」を手放さずに、母を追いかけているわけだ。どうして、これが投げ捨てられようか。と、実際の子供の意識はいざ知らず、作者はそこに注目したのである。いい子だ。早くお母さんに追いつけよと、心のなかで励ましている。すなわち掲句は、何気ない日常の光景に取材した「母子讃歌」であった。最近、読者のSさんから、この秋の通草は実入りが悪いとメールをいただいた。失礼ながら、本稿を返信の代わりとさせてください。それにしても、もう何年も通草を口にしていない。売ってはいるが、買いたくない。通草は、山で獲るものサ。『合本俳句歳時記・新版』(1974)所載。(清水哲男)


October 13102000

 影踏みは男女の遊び神無月

                           坪内稔典

ッと句から平仮名を抜いて、漢字だけを集めてみる。すると「影踏男女遊神無月」と、なにやら意味あり気な「漢詩」の一行ができあがる(笑)。「影ハ男ヲ踏ミ、女ハ神ニ遊ブ、ムゲツケナシ(「残忍なことだ」の意)」と。もちろん、これは私の悪い冗談である。稔典さんよ、許してつかぁさいね。でも、漢字は表意文字だからして、漢字の多い句に出会うと、観賞が漢字に引きずられてしまうことは、よくある。掲句はきちんと書いてあるからそういうことは起きないが、初心の実作者はよほど注意をしないと、とんでもない解釈をされることもあるので、要注意だろう。閑話休題。この句の面白さは、なんといっても「影踏み」を「男女の遊び」だと独断したところにある。普通は、男女に無関係の子供の遊びだ。誰も「男女の遊び」だとは思ってもみないが、こうして独断することで見えてくるものはある。何かと男女交際に口うるさい神様は、会議で出雲にお出かけだ。その隙をねらって「男女」が遊んでいるわけだが、思いきり遊べばよいものを、なんとお互いの影を踏みあうことくらいしかできない哀れさよ。「影踏み」なんて日のあるうちにするもので、しかも「神無月」の日照時間は短いのである。お楽しみはこれからなのに、なんて遊びにかまけているのか。作者はべつに警句を吐いたのではない。ただ、庶民の遊びの貧しさをからかい、そこにまた庶民のつつましさを見て、苦笑とともに共感を寄せている。このときに庶民とは、まずもって作者自身のことなのだ。だから、この句にはナンセンスの妙味もあるけれど、同時に苦くて寂しいユーモアが感じられる。「影踏み」か……。最後に遊んだのは、いつ誰とだったか。『猫の木』(1987)所収。(清水哲男)


October 14102000

 露寒の刑務所黒く夜明けたり

                           岡本 眸

こから、すべての物語がはじまる。ドラマがが動きはじめそうな予感がする。掲句は、いろいろなことを読者に想像させる。フランスのフィルム・ノワール(暗黒街を扱う映画)だとか、邦画では赤木圭一郎『抜き打ちの竜』シリーズなど、一連の都会的な悪の世界を娯楽的に描いた映画のファンであった私は、そんな印象を受けたく(!)なる。が、おそらく作者には、そうした芝居っ気はないのだろう。あったとすれば、季語の「露寒」が抒情的に過ぎるからだ。写生句だろうか、想像句だろうか。わからないが、世間を隔てる高くて長い塀の向こうの黒い建物を句の中心に据えて、秋の寒さを言ったところは、お見事と言うしかない。夜明けだから、作者は起きたばかりだ。まだ、暖をとることはしていない。そして刑務所には、いつだって暖などはない。「露寒」という同じ環境にはあるのだけれど、こちらには望めば暖かい時間は得られるわけだが、あちらには望んで得られる環境はないのである。と言って、ことさらに「おかわいそうに」ということではなく、望んで得られるかどうかの落差に、作者は「露寒」をより切なく感じたということだろう。句には無関係な話だが、塀のあちらに行ってきた友人の話では、寒暖への関心はむしろ二の次で、量刑の多寡による人間関係の難しさがコタえたと言っていた。政治犯であった彼の独房の周辺には、数人の死刑囚が収監されていた。「必ず生きて出られるオレは、その思いだけでも暖かかった」と、これは私の脚色だけれど、向こう側でもこちら側でも、人間関係の寒さがいちばん寒いのである。『朝』(1971)所収。(清水哲男)


October 15102000

 身の上や月にうつぶく影法師

                           茨木理兵衛

谷川伸(『一本刀土俵入』などで知られる劇作家・小説家)の随筆で知った句。句景からして、落魄の人生を詠んだ句であろうことは、容易にうかがえる。月を仰がず、地べたを見ている。そこには、己の影法師が寂しく「うつぶ」いている。長谷川は「俳句とその成る事情が小説に企て及ばないものがある」と言い、例証にこの句をあげている。理兵衛は、江戸期寛政の人。伊勢の津城主藤堂家の領地に起こった寛政一揆鎮圧の責任者で、当然、農民たちの恨みをかった。「伐つてとれ竹八月に木六月、茨の首は今が切りどき」という落首も出たほど。結局は鎮圧に失敗し、帰宿謹慎を命じられた理兵衛は腹を切ろうとするが、「死んで何になる。時機を待ち功を立て罪を償うのが家臣の道だ」と説く人があり、屈して生きのびた。浪々十年。旧知三百石で召還されたが、流転の十年の傷は癒えず懊悩の後半生を送ったという。そんな「生きたる残骸」が作った句だと長谷川は書き、「戯曲にかいても小説にかいても、『身の上や』の句から滲みでる哀傷の人生を表現するほどのものを企て及ばない」と書いている。その通りだろう。作者に俳句の素養がどの程度あったのかは知らないが、私のカンでは素人同然だったと思う。勉強した人なら、いきなり「身の上や」とは恐くて出られまい。芝居っ気がありすぎて、初手から句品を落とす危険性があるからだ。それを素人だから、何の衒いもなく素直に「身の上や」と出た。その素直が句全体に染みとおり、後世に残った。『長谷川伸全集・第十一巻』(1972)所載。(清水哲男)


October 16102000

 赤とんぼじっとしたまま明日どうする

                           渥美 清

木露風の童謡「赤とんぼ」を思い出す。三番の結び。「……、とまっているよ、竿の先」。掲句の作者も見ているように、よく赤とんぼ(だけではないけれど)は、秋の日に羽を光らせて「じっとしたまま」でいることがある。休息しているのだろうか。が、鳥のように羽をたたまずにピーンと張ったままなので、緊張して何か思案でもしいるような姿に写る。露風の詩はここまでで止めている(この詩が、露風十代の俳句を下敷きにしていることは以前に書いた)が、掲句はもう一歩踏みだしている。お前、明日はどうするんだい。そう言ってはナンだが、何かアテでもあるのかい。この優しい呼びかけは、もとより自身への呼びかけである。お互いに、風に吹かれて流れていく身なのだからさ。と、赤とんぼを相棒扱いにして呼びかけたところに、露風とはまた違う生活感のある人間臭い抒情味が出た。作者は、ご存知松竹映画「『男はつらいよ』シリーズ」で人気のあった寅さんだ。いや、寅さんを演じた役者だ。渥美清は、俳号を「風天」と称していた。「フーテンの寅」に発している。掲句は朝日新聞社発行の雑誌「アエラ」に縁のある人々の「アエラ句会」で披露された45句のうちの一句。熱心で、句会には皆勤に近かったと、亡くなった後の「アエラ」に出ている。このことを知ると、どうしても「寅さん」が詠んだ句だと映画に重ね合わせて読んでしまう。止むを得ないところだが、しかし、そういうことを離れて句は素晴らしい。「どうする」の口語調が、とりわけて利いている。この秋の赤とんぼの季節も、そろそろおしまいだ。「明日どうする」。どうしようか。「アエラ」(1996年8月19日号)所載。(清水哲男)


October 17102000

 牛乳屋ちらと睹し秋暁の閨正し

                           中村草田男

てと、まずは漢字の読み方から。「睹し」は「みし」で「秋暁」は「しゅうぎょう」、「閨」は「けい」と読む。「牛乳」は「ちち」と、これは作者が振り仮名をつけている。牛乳配達は、朝が早い。そろそろ寒さが身にしみはじめる秋の朝、自転車で配達する牛乳屋さんも大変だ。心なしか、夏の配達時よりもピッチが上っている。配り慣れた家々なので、手早く牛乳箱から空き瓶を取り出しては、荷台の新しい牛乳に黙々と交換していく。それでも、ちらとは「閨」に目をやり、その家に何事も起きていないことを確認しているようにも見える。秋の朝の澄んだ空気のなか、その家の「閨」はきちんとしており、「正し」い輪郭で朝を迎えている……。「秋暁」の市井の凛とした空気を伝えた句だ。さて、この「閨」であるが、本義は「門」だ。これに「圭」(瑞玉)を転がり込ませた文字だから、やんごとなきお方の家の「門」。転じて婦人の部屋の意ともなり、これは「閨房」「閨閥」などでお馴染だ。そして「睹」は「目」と「者」で、集めあわせることで、視線を一点に集中して見るの意味となる。となれば、この牛乳配達さん、ひょっとすると女性の寝所か夫婦の部屋に「ちらと」ではあるけれど、視線を集めているのかもしれない。ならば「ちち」と照応する。しかし、そこには何の動きも感じられず、清く「正し」く落ち着いている。生臭さの微塵もない「秋暁」の光景だ。つまり、これほどに難しい漢字を使ったところからして、作者の意識には、前者の解釈のなかに後者の色彩を「ちらと」混入したかったのだと読んだ。それにしても、こんなに辞書を引かされる句も、めったにあるものではない。疲れた。『萬緑』(1940)所収。(清水哲男)


October 18102000

 山姫に日まぜに味な言ふまぐれ

                           加藤郁乎

たぞろ通草(あけび)の登場となった。「山姫」は通草の異称だ。なぜ異称なのか。それは、いまあなたが思ったとおりの連想からでしょう(笑)。この句は、たとえばセロファンなどの透明な二枚の紙にそれぞれ異なった情景を描き、その二枚を重ね、日に透かして見るとわかるという構造を持つ。一枚目の情景は、ほぼ掲句の字面どおり。もう一枚のそれは、通草が秋の夕日をあびて(夕日にまざって)味のよさそうな頃合いを見せているという図。キーワードとして「日まぜ」と「言ふ」が使われており「目まぜ(目配せ)」と「夕」とに掛けてあるので、これが二枚の絵を重ね合わせた句とわかる仕掛けだ。まず作者は、秋の夕暮れに生っている通草を見ている。食べごろだなと思っている。しかし、そのまんまを詠むのも野暮だというのが郁乎美学。そこで、ひねった。「通草」は「山姫」。ならばこいつを「姫」に見立てて、という発想だ。山出しの女が色街で磨かれ、一丁前に男に目配せなどしながら、味なことを言うようになった……。この絵を、通草の生る自然の情景に重ね合わせたわけである。そこで、両者は秋の日を透かして食べごろの「味」として合体した。作者は「野暮は言いたくないが、明和のころより深川の岡場所に流行した粋、意気の心を忘れて俳句全盛の時代でもあるまい」と言う。「十七が折りかけてみるさくらかな」。この句でも「俳句十七音」と「娘十七」が「粋」に掛けられている。粋と意気に感じて生きるのも、私などには息が切れそうだ。『粋座』(1991)所収。(清水哲男)


October 19102000

 秋風やカレー一鍋すぐに空

                           辻 桃子

やこしい句がつづいたので、スカッとサワヤカに。「空」には「から」の振り仮名。カレーライスは、こうでなくてはいけない。いつまでも、ぐちゃぐちゃと食べるものではない。福神漬かラッキョウを添えて(ベニショウガもいいな)、一気呵成に口に放り込む。食べた後の一杯の水の、これまた美味いこと。健啖の楽しさに充ちた爽やかな句だ。この句を思い出すと、つられてカレーが食べたくなってしまう。カレーは、子供が辛いものにも美味いものがあることを知る最初の食べ物だろう。なかには父親の晩酌相手の塩辛だったという剛の者もいるけれど、たいていはカレーだ。私も、そうだった。塩辛とは辛さが違い、唐辛子のそれとも違い、なんだか不思議な辛さだなと、子供心に思ったことである。ハウス・バーモントカレーもいいけれど、専門店のカレーはやはり唸らせる。ただし、私には激辛は駄目。いつだったか、タイに住んでいたことのある人と一緒に食べたことがあるが、一口でダウンした。その人は、この程度じゃ利かないねと澄ましていた。専門店もいいが、蕎麦屋系の店が出すとろみのある和風味のカレーも好きだ。ただ、そういう店ではよく、水の入ったコップに匙を漬けて出してくる。あれは、いったい何のマジナイなのだろう。あれだけは、ご免こうむりたい。『ひるがほ』(1986)所収。(清水哲男)


October 20102000

 自負すこし野菊の畦に腰かけて

                           平岡千代子

者が「野菊の畦(あぜ)に腰かけて」いるのは、今である。が、ここには今にとどまらない時間が流れている。小さかった頃から、こうやって畦に腰かけては、いろいろな夢を描いてきた。それらの夢の実現には自負もあったし、今もある。野菊の畦は、そういう時間が流れてきた場所なのだ。野菊は昔から秋になると同じ姿でここに咲くから、少女時代の夢も自負も、ここに腰かければはっきりと思い出すことができる。思い返せば少女のころの夢も自負もが、とてつもなく大きいものだった。かなわぬ夢とも、無謀な望みとも思ってはいなかった。それが大人になって世間に馴染んでくるにつれ、夢は小さくなり、自負もためらい気味に「すこし」と感じるようになった。野菊は昔のままに咲き、私はもう昔の私ではない。しかし「すこし」にせよ、秘めたる夢と自負はあるのだ。作者はあらためて、自分で自分を励ましている。諦観を詠まずに、希望を歌っているところにうたれる。救われる。大人の健気とは、こういうものだろう。飛躍するようだけれど、実にカッコよい。平岡さんは、愛媛県北宇和郡在住。「私の家は遍路寺の近くにあります」と「あとがき」にある。素朴に野菊や山の花の咲く、日本の原風景が残っている土地なのだろう。ビルの谷間のちっぽけな公園のベンチに、いくら「腰かけて」みても、こういう句は生まれない。『橋』(2000)所収。(清水哲男)


October 21102000

 落葉のせ大仏をのせ大地かな

                           上野 泰

の鎌倉あたりでの写生句だろう。上野泰の持ち味の一つは、このように句景を大きく張るところにある。大きく張って、しかもこけおどしにはならない。読者を「なるほど」とうなずかせる客観性を、常にきちんと備えている。あくまでも大らかな世界であり、心弱いときにこういう句を読むと、大いに慰められる。小さな落葉と大きな仏の像との取り合わせは、下手をすると才走った小生意気な句にもなりかねないが、そうした臭みが抜けているのは、天性の才質から来るものなのだろう。しっかりした大地のごとき心映えのない私などには、真似しようにも真似のできない句境だ。いいなあ、こんなふうに世界を見られたら、感じられたらなあ。実に気持ちがいいだろうなあ。同じ句集に「鯛の上平目の上や船遊び」の句がある。掲句が水平的に大らかな広がりを見せているのに対して、この句は垂直的に大らかなそれを感じさせる。鯛と平目は浦島伝説の常識を踏まえた発想であることはすぐにわかるが、この発想に舟遊びの人がパッと至るところは、やはり天性の感覚だとしか考えられない。言われてみれば「なるほど」であり、しかし言われてみないと「なるほど」でないのが、本当の「なるほど」というものだ。泰句の「なるほど」の実例には事欠かないが、もう一句。「大空は色紙の如し渡り鳥」。具体的にして抽象的。世界をざっくりと力強く読み取る男振り。まいったね。『春潮』(1955)所収。(清水哲男)


October 22102000

 天高く梯子は空をせがむなり

                           仁藤さくら

子は短い。地面に倒されて置いてある梯子は長く見えるが、いざ立て掛けてみると、こんなに短かったのかと思う。ましてや、天高しの候。立て掛けて見上げる梯子の先の空は、抜けるように青い空間だから、頼りないほどに短く見える。そこで、こうした思いに出くわす。せがまれてもどうにもならないけれど、なんだか梯子に申しわけないような、立て掛けた自分の責任のような……。梯子にかぎらず、およそ道具には、こういうところがある。使い道にしたがって、たとえば包丁であれば何でも切ることをせがみ、自動車であれば無限のスピードをせがむ。道具のように機能を特化されていない人間の、これは機能を特化された道具に対する幻想ではあるけれど、道具がいちばん道具らしい表情を見せるのは、せがむ瞬間なのだ。ああ、梯子は高いところに上るための道具なのだと、せがまれてみて再認識をすることになる。その意味からして、掲句はひとつの道具論としても光っている。梯子とはこういうものだと、一発で言い当てている。実は私は高所恐怖症なので、この句のここまではわかるのだが、ここから先に作者が上っていく姿などは想像したくない。立て掛けて、地面の上から梯子の先を見上げ、その先に広がる秋空が目に入ったところで止めている句なので、書く気になった。と言いつつ、ちょっと上りかけた作者の気配を感じてしまい、目まいがしそうなので、本日はこれにておしまい。『Amusiaの島』(2000)所収。(清水哲男)


October 23102000

 階段は二段飛ばしでいわし雲

                           津田このみ

気晴朗、気分爽快、好日だ。だだっと階段を、二段飛ばしで駆け上がる。句には、その勢いが出ていて気持ちがよい。女性の二段飛ばしを見たことはないが、やっぱりやる人はやっているのか(笑)。駅の階段だろう。駆け上がっていったホームからは、見事な「いわし雲」が望めた。若さに溢れた佳句である。私も若いころは、しょっちゅう二段飛ばしだった。山の子だったので、勾配には慣れていた。しかし、今はもういけません。目的の電車が入ってくるアナウンスが聞こえても、えっちらおっちら状態。ゆっくり上っても、階段が長いと息が切れる。それこそ二段飛ばしで駆け上がる若者たちに追い抜かれながら、「一台遅らすか」なんてつぶやいている。追い抜かれる瞬間には、若者がまぶしく写る。嫉妬ではなく、若さと元気が羨ましくてまぶしいのだ。ところで、サラリーマン時代の同僚が、二段飛ばしで駆け降りた。仙台駅で東京に帰るための特急に乗ろうとして、時間がなかったらしい。慌てて駆け降りているうちに転倒して頭の骨を折り、即死だった。三十歳になっていただろうか。まだ十分に若かった。そして、若い奥さんと赤ん坊が残された。駆け上がりはまだしも、駆け下りは危険だ。ご用心。掲句を見つけたときに、ふっと彼の人なつこい笑顔を思い出したりもした。『月ひとしずく』(1999)所収。(清水哲男)


October 24102000

 懸崖に菊見るといふ遠さあり

                           後藤夜半

ろそろ菊花展のシーズンだ。昨秋は、神代植物園(東京・調布)に見に行った。ああいうところに、花の盛りを揃えて出展する人は、さぞや神経を使うのだろう。花を見ていると、そんなことが思われて、ただ見事だなというだけではすまない。花の真横に、育てた人が心配げに立っているような雰囲気がある。生花ではあるが、造花なのだ。「懸崖(けんがい)」は「幹または茎が根よりも低く垂れ下がるように作った盆栽[広辞苑第五版]」。たしかに懸崖の菊を見るには、ある程度の「遠さ」が必要となる。近くでは、全体像をつかめない。敷衍すれば、何かを見るときには見るための「遠さ」が必要ということであり、これは菊花のような実像だけではなく、虚像においても幻像においても同様だろう。当たり前と言えば当たり前。だが、この当たり前に感じ入る心は、俳句という装置の生みだしたものだ。俳句でなければ、この「遠さ」に着目するチャンスはなかなかないだろう。三島由紀夫の小説の叙景には「遠近感」がない。その位置からは遠くて見えないはずの景色のディテールを、目の前で見ているように書く。そう言ったのは磯田光一だったと記憶するが、小説家には案外遠近の意識は薄いのかもしれない。だとすれば、小説という装置がそうさせるのだと思う。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)


October 25102000

 他界にて裾をおろせば籾ひとつ

                           中村苑子

途の川は、死んでから七日目に渡る。三つの瀬は流れの緩急にそれぞれ差があって、どの瀬を渡るのかは生前の行いによるという。掲句の場合は、せいぜいが裾をからげて渡れたのだから、作者の現世での行いは非常によかったことになる。と言っても作者はご存命でなので、誤解なきように。三途の川を渡る際には、途中で衣服を剥ぎ取る鬼がいるので油断はならない。が、幸いそういうこともなく無事に渡り終えた。とりあえずホッとした気持ちで裾をおろしてみたら、「籾(もみ)」が一粒ぽつりと落ちたと言うのである。それだけのことだが、この「籾」の存在感は強烈だ。なぜなら「籾ひとつ」だけが、唯一そこでは生きたままだからである。ちっぽけな「籾」が、ひどく生々しい。さて、この一粒をどうしたものか。作者ならずとも、誰もが困惑するだろう。奇妙な味のショート・ストーリーでも読んだ感じがする。「他界にて」はむろんフィクションだが、裾から落ちた「籾ひとつ」は、現実体験に根ざしたものだろう。実際には「籾」ではなかったかもしれないけれど、何か小さな植物の種。小さくても、大きな生命体を胚胎しているもの。そういうものが場違いな場所に落ちると、気分が不安定となり落ち着けなくなる。まして「他界に」おいておや……。農家の子だったこともあり、一読者の私もひどく落ち着かない気分のする句だ。『白鳥の歌』(1996)所収。(清水哲男)


October 26102000

 鳥渡る勤め帰りの鞄抱き

                           深見けん二

ルの谷間から見上げる空にも、鳥の渡ってくる様子は見える。一日の仕事に疲れての帰宅時、なんとなく空を見上げたら、いましも渡っていく鳥たちが見えた。その昔「月給鳥」などという自嘲もあったが、大空を渡る鳥の姿は自由で羨ましい。黒い鞄を抱きながら、しばし見惚れたというところ。サラリーマンには、身に沁みる句だ。このときに胸に抱いている黒い鞄は、不自由の象徴だろう。それを、後生大事に抱いていなければならぬ侘びしさ。鞄の色など書かれてはいないが、この場合には、どうしても昔の平均的サラリーマンが持っていた黒い色のでないと味が出ない。私も、そんな鞄を持っていた。たいした物が入っているわけでもないのに、持っていないと不安というのか、何か頼りなさを感じたものだ。最近の人は、あまり黒い鞄を持たない。千差万別。意識的に街で観察してみたら、まさに千差万別だ。となれば、勤め帰りに見る渡り鳥の印象も、掲句のようには感じられないのかもしれない。鞄一つが変わったのではなくて、勤め人の意識が、昔とは大違いになっているということだろう。生涯サラリーマンで安住(?!)したかったのに、行く先々で会社がこわれてしまった私などには、掲句の侘びしさすらもが羨ましく写る。渡り鳥は、鳴いて渡る。昔のサラリーマンもまた、鞄を抱いて泣いて世間を渡っていた。というのは嘘で、ちゃんとした終身雇用制度下のサラリーマンは、この侘びしさをどこかで楽しむ余裕もあったということ。と書いても、べつに作者に失礼にはあたるまい。『雪の花』(1977)所収。(清水哲男)


October 27102000

 帽子掛けに帽子が見えず秋の暮

                           杉本 寛

の男は、よく帽子を被った。戦前の駅や街などの人出を撮った写真を見ると、たいていの男が帽子を被っている。会社員はもちろん、小説家や詩人もほとんどがソフト帽を被っていたようだ。うろ覚えだが、白秋に「青いソフトに降る雪は、過ぎしその手か囁きか、酒か薄荷かいつの間に、消ゆる涙か懐しや」の小唄がある。おしゃれの必需品だったわけだ。その気風は戦後しばらくまで引き継がれていて、二十代の叔父が、少し斜めに被っていたダンディな姿を思い出す。父は、いまだに帽子派だ。だから、家の玄関だとか会社の応接室などには、必ず帽子掛けが置いてあった。それがいつしか流行も廃れ、「帽子掛けに帽子が見えず」の状態となる。作者は帽子好きのようで、この状態に寂しさを覚えている。「秋の暮」のように物悲しい。と、これは私の勝手な解釈で、自註には「玄関には常に帽子がいろいろと。来客、句会の時は一掃」とある。つまり掲句は、来客があるので一掃した状態を詠んでいるのだ。そこまでは句から読み取れないので、私の解釈でもよいだろう。いまや帽子掛けは無用の長物と成り果て、その気になって探してみても、なかなか見ることができない。若い人に見せても、そもそも何に使う道具なのかがわからないかもしれない。しかし、どういうわけか私の今の職場には帽子掛けが置いてあり、誰も帽子など被って来ないから、もっぱら傘掛け専用で使われている。『杉本寛集』(1988)所収。(清水哲男)


October 28102000

 栗むきぬ子亡く子遠く夫とふたり

                           及川 貞

ったの一行で、家族の歴史を語っている。一人の子は亡くなり、一人の子は家を出て遠くに暮らしている。残された夫(つま)との二人暮らしの日々は、何事もなく静かに過ぎてゆく。「栗をむく」といっても、昔とは違い、ほんの少しで足りる。子供らがいてにぎやかだった頃には、たくさんむいた。その様子を、幼い子供らは目を輝かせて見つめていたものだ。そういうことが思い出され、あの頃が家族の盛りの季節であり、自分にも華の季節だったと、一抹の哀感が胸をよぎるのである。生栗の皮は、なかなかにむきにくい。とくに渋皮をきれいにむくのは、栗の状態にもよるけれど、そう簡単ではない。包丁で無造作に分厚くむく人もいるけれど、実がそがれてしまうので、私などにはもったいなくて、とても真似できない。子供時代には、爪だけでていねいに渋皮をむいた。外皮には、歯を使った。いまでは、とてもできない芸当だった。チャレンジする気にもならないが、おそらくはもう歯など立たないだろう。加藤楸邨に「我を信ぜず生栗を歯でむきながら」の一句あり。そうして皮がむけたら、栗ご飯にする。米は、もちろん新米だ。美味いのなんのって、頬っぺたが落ちそう……。あの当時の「銀シャリ」は美味かった。「コシヒカリ」なんてなかった頃。いまは、私の田舎でも「コシヒカリ」ばっかりだと聞いた。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


October 29102000

 行先ちがふ弁当四つ秋日和

                           松永典子

日あたり、こんな事情の家庭がありそうだ。絶好の行楽日和。みんな出かけるのだが、それぞれに行き先が違う。同じ中身の弁当を、それぞれが同じ時間に別々の場所で食べることになる。蓋を取ったとき、きっとそれぞれが家族の誰かれのことをチラリと頭に描くだろう。そんな思いで、弁当を詰めていく。大袈裟に言えば、本日の家族の絆は、この弁当によって結ばれるのだ。主婦であり母親ならではの発想である。変哲もない句のようだが、出かける四人の姿までが彷彿としてきてほほ笑ましい。こういうときには、たいてい誰かが忘れ物をしたりするので、主婦たる者は、弁当を詰め終えたら、そちらのほうにも気を配らなければならない。「ハンカチ持った?」「バス代は?」などなど。家族の盛りとは、こういう事態に象徴されるのだろう。みなさん、元気に行ってらっしゃい。また、こういう句もある。「子の布団愛かた寄らぬやうに干し」。よくわかります。一応ざっと干してから、均等に日が当たるようにと、ちょちょっと位置を微妙に修正するのだ。今日あたり、こういう母親もたくさんいるだろう。ちなみに「布団」は冬の季語。「とても好調だ、典子は」と、これは句集に添えられた坪内稔典さんの言葉だ。『木の言葉から』(1999)所収。(清水哲男)


October 30102000

 日当りの土いきいきと龍の玉

                           山田みづえ

が群生し葉先の長い「龍の玉(りゅうのたま)」の実は、一寸かきわけないとよく見えない。虚子の句「竜の玉深く蔵すといふことを」は、この様子からの発想だ。木の下などの日蔭の植物というイメージが濃いが、掲句では日にさらされている。垣根か庭の下草として植えられたものだろうか。眼目は「龍の玉」そのものからは一度焦点が外されて、周辺の土から詠んでいるところだ。土を詠んで、もう一度「龍の玉」に目が向けられている。陰気といえば陰気な「龍の玉」が「日当り」にある姿は、たぶん生彩を失っているだろう。瑞々しさが減り、埃っぽい感じすら受ける。だから余計に、土の「いきいきと」した様子が浮き上がる。そこで「龍の玉」は、身の置き所がないように俯いている。人に例えれば、内気な人が急に晴舞台に引っぱり上げられたようなものである。作者は土の勢いに感嘆しつつも、身を縮めている風情の植物にいとおしさを感じている。この素材に、こうした着眼は珍しい。一筋縄ではいかない感性のありようを感じる。「龍の玉」の実は「はずみ玉」とも言われるように、固くて弾力があり、子供のころは地面に叩きつけて遊んだりした。もっとも、叩きつけた地面(土)の勢いなど、何も感じなかったけれど……。たぶん子供は自分の命に勢いがあるので、自然の勢いなどには無頓着なのである。『木語』(1975)所収。(清水哲男)


October 31102000

 翻訳の辞書に遊ばす木の実独楽

                           角谷昌子

集の後書きによれば、作者は文部省関連事業のボランティアとして海外派遣に携わってきたという。語学に堪能な人のようだ。さて、この単語をどう翻訳すべきか。思案しながら、たまたま机の上にあった「木の実独楽(このみごま)」を辞書の上でまわしてみる。思案はあくまでも翻訳語の上にあるのだから、上手にまわそうというのではなく、なんとなくまわしながら的語を「ひねり出そう」というわけだ。翻訳の仕事ではなくとも、人は思案に行き暮れたときに、ほとんど無意識のうちに何か別の行為にはしる。頭を掻きむしっている昔の文士の戯画があるが、あれなどもその一つだ。掻きむしったところで、よい知恵の浮かぶ保証があるわけでもないけれど、とにかく何かせずにはいられない。それがだんだん「癖」になってくる。私の場合には、行き詰まると煙草を吸う。とくに吸いたくもないのに、いつの間にか口に銜えている。煙が立ち上っていると、心が落ち着いてきて次に進めるようである。煙草に火がついている時間は、ほぼ三分間くらいか。この時間はいつも一定しているので、ちょっと思考の息を整えるのには、私にはちょうどよい時間幅ということだろう。このデンで言えば、作者の癖は机上で何かを手にしては転がすこと。あるいは、掌中で何かを玩ぶことのようだ。「木の実」の季節が過ぎると、何を掌中にするのだろうか。『奔流』(2000)所収。(清水哲男)




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