久しぶりにネットで買物をした。原稿用紙型入力ソフト。旧バージョンを騙し騙し使ってきたが限界。




2000ソスN10ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 03102000

 雁来紅弔辞ときどき聞きとれる

                           池田澄子

が飛来するころに葉が紅く色づくので「雁来紅」。「かまつか」の読みも当てるが、掲句ではそのまま「がんらいこう」と読ませるのだろう。葉鶏頭のこと。故人とは特別に親しかったわけでもないので、作者は参列者の末席あたりにいる。「雁来紅」が目に写るということは、小さな寺で堂内に入れずに、境内に佇んでいるのかもしれない。こういうことは、よくある。したがって、弔辞もよく聞こえない。こうした場合、普通は「よく聞きとれぬ」と言うところを、同じことなのだが「ときどき聞きとれる」とやったところに可笑しみが出た。物も言いようと言うけれど、掲句の「言いよう」には俳句での年季が感じられる。「聞きとれぬ」と「聞きとれる」では、葬儀そのものへの感情的距離感がまったく違ってしまう。「聞きとれぬ」は悲哀に通じ、逆に「聞きとれる」は諧謔に通じる。作者は、そのことを十二分に承知している。「雁来紅」はいよいよ鮮やかに目に沁み、いわば義理で出ている葬儀はなかなか終わりそうもない。『ゆく船』(2000)所収。(清水哲男)


October 02102000

 朝寒のベーコン炒めゐたりけり

                           草間時彦

間時彦の句に出てくる食べ物は、いつも美味しそうだ。食の歳時記といった著書もあると記憶するが、いわゆる「食通」ではなく、舌のよさを誇示するようなところはない。むしろ誰もが食べている普通の食材、普通の料理から、それぞれの美味しい味を引き出す名人とでも言うべきか。掲句のベーコンにしても、然り。炒められているベーコンは、寒くなってきた朝という設定のなかにあってこそ、まことに香ばしい美味を思わせる。「朝寒(あささむ)」に襟を掻きあわせたい気分で起きてくると、台所では妻がベーコンを炒めていた。とても嬉しい気分になった。その妻の様子を「炒めゐたりけり」と大きく捉えることで、気の利く妻への無言の感謝の念と、間もなくカリカリに揚がって食卓に出てくるベーコンへの期待感を詠み込んでいる。もちろんベーコンでなくてもよいのだが、寒くなりかけた朝の透明な空気にベーコンとは洒落ているのだ。私はベーコン好きだから、余計にそう感じるのだろうが……。ともかく句をパッと読んだとたんに、パッと食べたくなる。誰にも作れそうでいて、作ろうと思うとなかなかに難しそうな句だ。芸の力を思う。『櫻山』(1974)所収。(清水哲男)


October 01102000

 林檎投ぐ男の中の少年へ

                           正木ゆう子

が大勢いて、そのなかの少年に投げたのではない。男は、一人しかいない。その一人のなかにある「少年性」に向けて投げたのだ。「投ぐ」とあるが、野球などのトス程度の投げ方だろう。ちょっとふざけて、少し乱暴に投げた感じもある。いずれにしても、作者は投げる前に、キャッチする男の子供っぽい仕草を読んでいる。そんな仕草を引きだしたくて、投げている。何故と聞くのは野暮天で、楽しいからに決まっている。他愛ないことが楽しいのは、恋人たちの特権だ。それにしても男女の間柄で、女はなかなか少女の顔を見せないのに、男はすぐに少年になるのは、それこそ何故なのだろう。女のことはわからないが、よほど男は甘える対象に餓えているのかと、思ったりする。パブリックな社会では、男の甘えは許されない。甘えは「幼稚」という評価につながり、互いに「大人」のヨロイカブトで牽制しつつ、「少年」を隠しあう。だから、いかにタフな男でも、息が詰まる。詰まるから、私的な空間ではたちどころに女に甘えてしまう。……なあんて、ね。掲句に対する「大人」の男の最も礼儀正しい態度は、俯いて「ごちそうさま」と言うことである。『水晶体』(1986)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます