福岡ダイエー、二連覇。ファンのみなさん、おめでとうございます。この優勝は「素直に」喜べたゾ。




2000N108句(前日までの二句を含む)

October 08102000

 はたおりの子を負ひたればあはれなり

                           山口青邨

ょっと待って……。ここから先を読む前に、もう一度掲句に戻っていただきたい。句に戻って、句に詠まれた情景をイメージしてから、ここに戻ってきてください。さて、どうですか。イメージは浮かびましたか。そのイメージは、とても大切です。赤ん坊をおんぶして、機織(はたおり)の仕事に励んでいる女性の姿が浮かんだと思います。子育てをしながら、なおかつ賃仕事を強いられる貧しい女性の姿でしょうね。だから、作者は「あはれ」だと……。しかし、賢明な諸兄姉が既にお気づきのように、だとすると、この句には季語が無い。有季定型俳人である青邨が、無季句を作るはずはない。はてな?? ところが、季語はあるのです。季語は「はたおり」。「ばった」のことです。「ばった」の異名は「機織虫」。仕草からの連想でしょう。「はたおり」は「きりぎりす」の異名でもあるけれど、この場合は「おんぶばった」を指しています。第一「きりぎりす」は遊び人ですしね(アリとキリギリス)。この「おんぶばった」の習性に、読者が最初にイメージした女性の姿を重ねての「あはれ」なのです。持って回った書き方をしてしまいましたが、作者もおそらくは、こう読んでもらいたかったのではないでしょうか。お口直しに(笑)、真っ当な「きちきちばった」の「あはれ」を、どうぞ。「きちきちといはねばとべぬあはれなり」(富安風生)。『合本俳句歳時記・新版』(1974)所載。(清水哲男)


October 07102000

 何もないとこでつまずく猫じゃらし

                           中原幸子

ういうことが、私にもたまに起きる。どうしてなのか。甲子園で行進する球児のように、極度の緊張感があるのならばわかる。足並みを揃えなければと思うだけで、歩き方がわからなくなるのだ。だから、チームによっては極度に膝を高く上げて歩いたりする。普段と違う歩き方を意識することで、これは存外うまくいくものだ。しかし、一人でなんとなく歩いていてつまずくとは、どういう身体的な制約から来るのだろうか。やはり、突然歩き方がわからなくなったという意識はある。そう意識すると、今度は意識しているから、余計につまずくことになる。道端で「猫じゃらし」が風にゆれている。くくっと笑っているのだ。コンチクショウめが……。そこで、またつまずく。「猫じゃらし」の名前は一般的だが、昔は仔犬の尻尾やに似ていることから、どちらかというと「狗尾草(えのころぐさ)」のほうがポピュラーだったようだ。たいていの歳時記の主項目には「狗尾草」とある。「良い秋や犬ころ草もころころと」(一茶)。この句は、仔犬の可愛らしさに擬している。『遠くの山』(2000)所収。(清水哲男)


October 06102000

 煙草女工に給料木犀よりあかるし

                           飴山 實

料日。不思議なもので、誰が口に出すわけでもないのに、なんとなく会社や工場のなかがはなやぐから、訪ねた第三者にもそれとわかる。作者は戦後間もなく、生活改善運動などに取り組んでいたので、その折りの一光景だろうか。まだ「女工」という言葉が生きていた。決して高くはない給料を手にした彼女たちが素直に喜んでいる様子を、敷地内の「木犀(もくせい)」に「よりあかるし」と照り返させている。愛情にいささかの哀惜の情が入り交じって、美しい一句となった。この「より」を「MORE」ではなく「THAN」と読むことも可能だが、私には「MORE」のほうが工場全体の雰囲気を伝えていて、好もしい。「THAN」だと、句が平板になるように思う。いずれにしても、当時の給料は現金支給だったので、明るさが自然に素朴に出たのだろう。私が勤めていた1960年代の河出書房もキャッシュであり、おまけに月二回システムだったから、社内は月に二度はなやいだ。もっとも、その頃の文藝春秋社などは、なんと週給制を採用していた。どういうわけだったのだろう。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)




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