千代田生命。死んだ友人が勤めていた会社。「生保ってヒゼニの入る商売だから潰れない」と言ってた。




2000ソスN10ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 10102000

 秋澄むや山を見回す人の眼も

                           大串 章

者が詠んでいる人は、物珍しくて見回しているのではない。山で暮らす生活者の「眼」だ。好奇心の「眼」はきらきらとは光るが、ついに「澄む」までには至らない。山に住む人は、子供のころからずっと山を見回して生きてきたのだし、これからも生きていく。山は、実にいろいろなことを教えてくれるから、半ば本能的に見回すのだ。季節の移ろいを知ることは無論だが、その日の天候を知ることにはじまり、山の活気如何による作物の出来具合、はたまた自分の精神状態まで、それと意識しなくても、見回すだけでわかってくる。「自然にやさしく」などというしゃらくさい「眼」では、見回してもタカが知れている。したがって、この人の見回す「眼」は澄んでいる。澄んでいなければ、見回せない。「澄む」とは、環境に溶けていることだ。都会に暮らす作者は、ひさしぶりに見回す「眼」の澄んでいる人に接して、かつて山の子だった自身の周辺の「眼」を思い出したのだ。そこに、感動がある。見回す「眼」で、それこそ私は思い出した。笠智衆の「眼」だ。たとえば映画『東京物語』を思い出していただきたい。彼が見回すのは、山ではなくて瀬戸内海だが、同じことである。ああいう眼技のできる役者は、少ない。『東京物語』に限らないが、本当にその地で生活している人のように、自然にすうっと見回すことのできる名人であった。見回す「眼」は、いつも澄んでいた。作者主宰俳誌「百鳥」(2000年10月号)所載。(清水哲男)


October 09102000

 体育の日を書き物で過ごしけり

                           森田公司

育と「書き物」などの机上の所業とは、対立的な振る舞いとして捉えられてきた。身体を使うか、使わないか。対立軸は、そこにある。考えてみれば「文武両道」なる精神も、そこに発している。「文弱」なども同様だ。だから、掲句も意味を持つ。みんなが身体を動かすことに自覚的な一日を、我一人は文章を書いて過ごした。よんどころない原稿の締切に追われたせいなのか、あるいは誘われた市民運動会なんぞに参加してやるものかという反骨心(ひねくれ根性)からか、それは知らない。いずれにしても、句は常識としての対立概念をベースに成立している。しかし、それこそひねくれ根性のせいか、私はこの常識を好きになれない。体育と「書き物」などの「知育」とは対立してはいない。むしろ、平行している。共存している。極められるかどうかは別にして、人は誰でも本質的に「文武両道」であらざるを得ぬ生き物だろう。それをことさらに「体育」と言い「知育」と言ってきたのは、何のためだろうか。決まってるジャン、国家のためだ。富国強兵、お国のためである。「体育の日」は、東京五輪(1964)の記念日だ。お国のために開かれたオリンピックを、永久に思い出させようとする企みに発した旗日である。ヒットラーの愛人が作ったベルリン五輪の記録映画『民族の祭典』は、その素晴らしい映像を梃子に、この二項対立概念を「民族」に説得する方便としての映画でもあった。そして、戦争がはじまる。はじめは「体育」の人が死んでいき、結局は「知育」の人も後を追わされた……。「旗日とやわが家に旗も父もなし」(池田澄子)。『新日本大歳時記・秋』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


October 08102000

 はたおりの子を負ひたればあはれなり

                           山口青邨

ょっと待って……。ここから先を読む前に、もう一度掲句に戻っていただきたい。句に戻って、句に詠まれた情景をイメージしてから、ここに戻ってきてください。さて、どうですか。イメージは浮かびましたか。そのイメージは、とても大切です。赤ん坊をおんぶして、機織(はたおり)の仕事に励んでいる女性の姿が浮かんだと思います。子育てをしながら、なおかつ賃仕事を強いられる貧しい女性の姿でしょうね。だから、作者は「あはれ」だと……。しかし、賢明な諸兄姉が既にお気づきのように、だとすると、この句には季語が無い。有季定型俳人である青邨が、無季句を作るはずはない。はてな?? ところが、季語はあるのです。季語は「はたおり」。「ばった」のことです。「ばった」の異名は「機織虫」。仕草からの連想でしょう。「はたおり」は「きりぎりす」の異名でもあるけれど、この場合は「おんぶばった」を指しています。第一「きりぎりす」は遊び人ですしね(アリとキリギリス)。この「おんぶばった」の習性に、読者が最初にイメージした女性の姿を重ねての「あはれ」なのです。持って回った書き方をしてしまいましたが、作者もおそらくは、こう読んでもらいたかったのではないでしょうか。お口直しに(笑)、真っ当な「きちきちばった」の「あはれ」を、どうぞ。「きちきちといはねばとべぬあはれなり」(富安風生)。『合本俳句歳時記・新版』(1974)所載。(清水哲男)




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