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October 15102000

 身の上や月にうつぶく影法師

                           茨木理兵衛

谷川伸(『一本刀土俵入』などで知られる劇作家・小説家)の随筆で知った句。句景からして、落魄の人生を詠んだ句であろうことは、容易にうかがえる。月を仰がず、地べたを見ている。そこには、己の影法師が寂しく「うつぶ」いている。長谷川は「俳句とその成る事情が小説に企て及ばないものがある」と言い、例証にこの句をあげている。理兵衛は、江戸期寛政の人。伊勢の津城主藤堂家の領地に起こった寛政一揆鎮圧の責任者で、当然、農民たちの恨みをかった。「伐つてとれ竹八月に木六月、茨の首は今が切りどき」という落首も出たほど。結局は鎮圧に失敗し、帰宿謹慎を命じられた理兵衛は腹を切ろうとするが、「死んで何になる。時機を待ち功を立て罪を償うのが家臣の道だ」と説く人があり、屈して生きのびた。浪々十年。旧知三百石で召還されたが、流転の十年の傷は癒えず懊悩の後半生を送ったという。そんな「生きたる残骸」が作った句だと長谷川は書き、「戯曲にかいても小説にかいても、『身の上や』の句から滲みでる哀傷の人生を表現するほどのものを企て及ばない」と書いている。その通りだろう。作者に俳句の素養がどの程度あったのかは知らないが、私のカンでは素人同然だったと思う。勉強した人なら、いきなり「身の上や」とは恐くて出られまい。芝居っ気がありすぎて、初手から句品を落とす危険性があるからだ。それを素人だから、何の衒いもなく素直に「身の上や」と出た。その素直が句全体に染みとおり、後世に残った。『長谷川伸全集・第十一巻』(1972)所載。(清水哲男)




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