長い拙稿のゲラに変換誤字だらけ。昔、筑紫哲也さんと「増えるでしょうね」と話したことが我が身に。




2000ソスN10ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 25102000

 他界にて裾をおろせば籾ひとつ

                           中村苑子

途の川は、死んでから七日目に渡る。三つの瀬は流れの緩急にそれぞれ差があって、どの瀬を渡るのかは生前の行いによるという。掲句の場合は、せいぜいが裾をからげて渡れたのだから、作者の現世での行いは非常によかったことになる。と言っても作者はご存命でなので、誤解なきように。三途の川を渡る際には、途中で衣服を剥ぎ取る鬼がいるので油断はならない。が、幸いそういうこともなく無事に渡り終えた。とりあえずホッとした気持ちで裾をおろしてみたら、「籾(もみ)」が一粒ぽつりと落ちたと言うのである。それだけのことだが、この「籾」の存在感は強烈だ。なぜなら「籾ひとつ」だけが、唯一そこでは生きたままだからである。ちっぽけな「籾」が、ひどく生々しい。さて、この一粒をどうしたものか。作者ならずとも、誰もが困惑するだろう。奇妙な味のショート・ストーリーでも読んだ感じがする。「他界にて」はむろんフィクションだが、裾から落ちた「籾ひとつ」は、現実体験に根ざしたものだろう。実際には「籾」ではなかったかもしれないけれど、何か小さな植物の種。小さくても、大きな生命体を胚胎しているもの。そういうものが場違いな場所に落ちると、気分が不安定となり落ち着けなくなる。まして「他界に」おいておや……。農家の子だったこともあり、一読者の私もひどく落ち着かない気分のする句だ。『白鳥の歌』(1996)所収。(清水哲男)


October 24102000

 懸崖に菊見るといふ遠さあり

                           後藤夜半

ろそろ菊花展のシーズンだ。昨秋は、神代植物園(東京・調布)に見に行った。ああいうところに、花の盛りを揃えて出展する人は、さぞや神経を使うのだろう。花を見ていると、そんなことが思われて、ただ見事だなというだけではすまない。花の真横に、育てた人が心配げに立っているような雰囲気がある。生花ではあるが、造花なのだ。「懸崖(けんがい)」は「幹または茎が根よりも低く垂れ下がるように作った盆栽[広辞苑第五版]」。たしかに懸崖の菊を見るには、ある程度の「遠さ」が必要となる。近くでは、全体像をつかめない。敷衍すれば、何かを見るときには見るための「遠さ」が必要ということであり、これは菊花のような実像だけではなく、虚像においても幻像においても同様だろう。当たり前と言えば当たり前。だが、この当たり前に感じ入る心は、俳句という装置の生みだしたものだ。俳句でなければ、この「遠さ」に着目するチャンスはなかなかないだろう。三島由紀夫の小説の叙景には「遠近感」がない。その位置からは遠くて見えないはずの景色のディテールを、目の前で見ているように書く。そう言ったのは磯田光一だったと記憶するが、小説家には案外遠近の意識は薄いのかもしれない。だとすれば、小説という装置がそうさせるのだと思う。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)


October 23102000

 階段は二段飛ばしでいわし雲

                           津田このみ

気晴朗、気分爽快、好日だ。だだっと階段を、二段飛ばしで駆け上がる。句には、その勢いが出ていて気持ちがよい。女性の二段飛ばしを見たことはないが、やっぱりやる人はやっているのか(笑)。駅の階段だろう。駆け上がっていったホームからは、見事な「いわし雲」が望めた。若さに溢れた佳句である。私も若いころは、しょっちゅう二段飛ばしだった。山の子だったので、勾配には慣れていた。しかし、今はもういけません。目的の電車が入ってくるアナウンスが聞こえても、えっちらおっちら状態。ゆっくり上っても、階段が長いと息が切れる。それこそ二段飛ばしで駆け上がる若者たちに追い抜かれながら、「一台遅らすか」なんてつぶやいている。追い抜かれる瞬間には、若者がまぶしく写る。嫉妬ではなく、若さと元気が羨ましくてまぶしいのだ。ところで、サラリーマン時代の同僚が、二段飛ばしで駆け降りた。仙台駅で東京に帰るための特急に乗ろうとして、時間がなかったらしい。慌てて駆け降りているうちに転倒して頭の骨を折り、即死だった。三十歳になっていただろうか。まだ十分に若かった。そして、若い奥さんと赤ん坊が残された。駆け上がりはまだしも、駆け下りは危険だ。ご用心。掲句を見つけたときに、ふっと彼の人なつこい笑顔を思い出したりもした。『月ひとしずく』(1999)所収。(清水哲男)




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